なぜ、この町に酒屋が生まれたのでしょうか?

竹原の塩づくりが成功した理由は、潮の干満の大きさだけではありません。雨が少ない気候など、いくつもの自然条件に恵まれていたからです。

しかし、この条件は竹原だけのものではありませんでした。やがて瀬戸内の各地でも「塩は儲かる商い」として注目され、競うように塩田の開発が進みます。こうして瀬戸内一帯は、日本の塩づくりの8割を担うまでに成長しました。

けれど、塩の現実は決して甘くありません。

作りすぎれば塩が余り、値段が下がり、思うように売れなくなる──このピンチに対応するため、瀬戸内の各地と協定を結び、冬の間は塩づくりを休むことにしたのです。

しかし、働き手が余る冬の間、ただ手をこまねいているわけにはいきません。そこで浜旦那たちは、塩づくりを休む間に「酒づくり」という新たな挑戦を始めました。夏は塩、冬は酒。季節に寄り添うこの循環は、竹原に新たな富をもたらしたのです。

竹鶴家もまた塩づくりを営みながら、冬には酒を仕込むようになりました。あるとき、家の裏の竹藪に鶴が巣を作ったのを見て、これは縁起が良いと「竹鶴」という名前に改めたと伝わります。それから現代まで、300年近く一貫して酒づくりを続けてきたのです。

「マッサン」で知られるニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝がこの家で生まれたのも、運命に導かれた必然だったのかもしれません。

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