竹原の塩が不況に陥った理由は、作りすぎただけではありません。もうひとつの大きな要因は、塩を炊くために必要な薪の値段が高騰したことでした。周辺の森林が減るにつれて薪が足りなくなり、価格はどんどん上がっていったのです。
その矢面に立っていたのが松阪家です。松阪家は薪問屋を中心に廻船業へと事業を広げていきました。そして、石炭の時代が訪れると、次の時代を見据え、石炭問屋となる決断を下しました。
こうして変わりゆく時代の波を巧みに乗りこなし、繁栄を築いていく。この柔軟さこそが、竹原の商人たちの真骨頂だったのかもしれません。
見上げてみてください、「てり・むくり」と呼ばれる、ゆるやかに波打つ大屋根を。この形もまた、寺院にしか使われない格式高い造りです。雨漏りがしやすいなどの実用性を犠牲にしてまで選ばれたこの屋根には、松阪家の誇りと美意識が込められているようにも思えます。
しかし、こうした華やかな成功の裏には、時代の波に乗れずに没落していった家もあったはずです。彼らはその後、どんな足跡を辿ったのか。そんな影にも思いを馳せながら、町歩きを続けてみましょう。