その答えは、竹原が塩で栄える前の時代にさかのぼります。
竹原に流れる川が「賀茂川」と呼ばれているように、竹原の歴史は京都の下鴨神社の荘園として開かれたことから始まります。このご縁が、「安芸の小京都」と呼ばれる理由です。その後、賀茂川沿いに市場ができ、港を持つ村として発展していきます。
しかし、やがて川から運ばれてくる土砂がたまり、港を埋めてしまいます。そこで、市場は場所を移し、戦国時代には今あなたが立っているこの場所に新たな村が築かれたのです。
西方寺はといえば、もともと別の場所にありましたが、この地にあったお寺が火事で焼えてしまったことをきっかけに、この地に移されました。そして江戸時代中期、普明閣が建てられます。傾斜地にせり出すように建てられたその姿は、どこか京都・清水寺を思わせます。
高台にそびえる普明閣は、かつて瀬戸内海を行き交う船にとって竹原の目印であり、灯台のような役割も果たしていたそうです。かつてこの場所からは、塩田だけではなく、港に集う船や塩を積み下ろす人々の活気、海と町が溶け合う風景が広がっていました。そんな往時のにぎわいを、そっと思い描いてみてください。