明治時代、竹原の酒造りは大きな転機を迎えます。
江戸時代の酒づくりは、塩のように外に輸出されるものではなく、藩内で消費されるものでした。しかし、明治維新を境に規制が解かれ、酒は自由に作り、自由に売れるようになります。これにより、竹原の酒は、全国に販路を広げることができるようになったのです。
ただ、全国で勝負するには量だけでなく、質が求められました。そこで竹原の酒造業者たちは力を合わせ、品質向上に挑戦します。
ここで大きな役割を果たしたのが、となり町の杜氏であった三浦仙三郎です。当時、兵庫の灘などに遅れを取っていた広島の酒を全国に知らしめようと、チームで一丸となって技術革新に取り組みました。
竹鶴家の竹鶴敬次郎もこのときのメンバーの一人。ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝は敬次郎の息子です。当時の竹鶴酒造の蔵内には、よりよい日本酒を追求する熱気に満ち溢れていたことでしょう。
その努力が花開いたのが、第一回全国清酒品評会。藤井酒造の「龍勢」が、全国3000を超える酒の中から首席第一等に選ばれました。この快挙は、竹原の酒、そして広島の酒の名を全国に広める大きなきっかけとなったのです。
塩づくりが衰退する一方で、古くから町に仕込まれてきた酒づくりは、竹原の新たな柱になります。塩と酒。二つの「白い命」をつないできた竹原の物語。その深い余韻は、今もこの町の空気の中に、静かに息づいています。
※このガイドは、取材や資料に基づいて作成していますが、ON THE TRIP の解釈も含まれています。諸説ある部分もありますが、真実は、あなた自身の体験の中で見つけてください。
ON THE TRIP 編集部
文章:志賀章人
写真:本間寛
声:五十嵐優樹