人は石の目を読み、くさびを打ち、山から石をわかつことを覚えました。その痕跡は、ここにくっきりと刻まれています。
秀吉が築いた大坂城はのちに戦火に焼け落ちます。勝者となった徳川は、豊臣の城を埋め立て、その隣により巨大で壮麗な城を築き上げました。「これからは豊臣ではなく徳川の時代なのだ」──そう天下に示すためでした。使われた石材は100万個を超えるともいわれます。全国の大名に築城の協力が命じられ、瀬戸内各地で丁場が開かれました。
この丁場が開かれたのも、そのときでした。黒田家が仕切り、その刻印を石に刻んで「我が藩の石」と示しました。実際に大坂城の石垣には、ここで見られるのと同じ刻印が発見されており、小豆島の石が確かに城を支えていたことがわかります。
一説によると、石工の給料は、その日に掘った矢穴に入るだけのお米。延べ4300万人が労を尽くし、ひとつの巨石を動かすには1000人が必要だったともいいます。
しかしある時、工事は突如打ち切られました。残されたのは、切りかけの石およそ1600個。職人たちはどんな思いを抱えたまま、この地を去ったのでしょうか。
そして目の前にそびえる「天狗岩」。高さ17メートル、重さ1700トンとも伝わる巨石には、切り出しの跡すらありません。なぜ誰も手をつけなかったのか──。人智では動かせぬ存在として畏れられたのかもしれません。天狗岩丁場は、無数の矢穴とともに、解かれぬ謎を今に残しています。