湯築城資料館のまわりは、「歴史の学び舎」であると同時に、この公園が積み重ねてきた「時代の流れ」を感じる場所でもあります。
湯上がりでひらいた感覚のまま歩けば、歴史は文字ではなく、空気のささやきとして体に届いてきます。
その瞬間、森林浴に「時間旅行」の感覚がそっと混ざります。
ここからは、森を歩くあなたのための「静かな歴史案内」を始めましょう。
この公園の物語は、聖徳太子の時代までさかのぼります。
太子が道後の湯を訪れたとき、この丘に登り、ひとつの碑を建てた——と伝えられています。
その場所は「伊佐爾波の岡(いさにわのおか)」と呼ばれるようになりました。
温泉と、ひとつの碑。そこから、道後の丘の物語が歩みだしました。
時代は流れて、中世。
伊予を治めていたのが河野(こうの)氏という一族です。
もともとは別の場所に本拠がありましたが、やがて彼らは思います。
——国を治める場所は、もっと「人と文化が集まるところ」がいいのではないか。
そのときすでに、道後には温泉があり、寺があり、市が立ち、にぎわいがありました。
そこで河野氏は、温泉のすぐそば、この丘に城を築き、本拠を移します。
そして、建てられたのが「湯築城(ゆづきじょう)」。
周囲には二重の堀がめぐらされ、土塁が築かれ、丘の上には本丸にあたる本壇、ふもとには武士たちが暮らす屋敷や、城下の町。
のちの時代の「近世城郭」にも通じる城づくりを先取りしていたと言われています。
しかし、戦国時代の終わり、豊臣秀吉が四国に乗り出したとき、湯築城も標的のひとつとなりました。
軍勢に包囲され、河野氏の最後の当主は、城を開け渡します。
江戸時代になり、松山城が築かれ、城下町が整えられると、残されたこの丘は、やがて竹やぶに覆われていきます。
人々があまり近づかない、白ヘビの伝説が残る古い神社のある、「古い城跡」であったようです。
明治になると、日本各地で「旧城跡を公園にする」動きが広がります。
この丘も例外ではなく、県の植物園となり、「道後公園」として整備されていきました。
大きな転機となったのが、伊佐庭如矢(いさにわゆきや)という人物。
彼は、いまの道後温泉本館をつくった人として有名ですが、同時に、「湯上がりに散策できる場所を」と考え、この公園を整え、道後温泉とセットで楽しめるようにしました。
戦後になると、公園の中に県立の動物園もつくられます。
キリンや、さまざまな動物たちであふれ、家族連れでにぎわう「レジャーの場」にもなりました。
昭和の終わり、動物園の移転が決まり、跡地を整備し直そうとしたとき、あらためて発掘調査が行われました。
すると、土塁や堀、武家屋敷の跡などが、驚くほど良い状態で地中から姿を現したのです。
——ここは、ただの公園ではない。
中世の伊予の姿を伝える、とても貴重な城跡が眠っている。
そう理解した人々は、「湯築城跡を残そう」と声を上げ、保存と活用のための動きが広がっていきます。
そうして、武家屋敷や土塁が復元され、資料館がつくられ、この丘は「国史跡・湯築城跡」として、新しい役割を帯びることになりました。
いま、あなたの目の前にある森は、単なる緑ではなく、そうした時間の積み重ねの上にある森です。
聖徳太子が碑を建てたとされる「伊佐爾波の岡」。
河野氏が本拠とした「湯築城」。
竹やぶと白ヘビ伝説の「お竹藪」。
伊佐庭如矢が整えた「湯上がりの公園」。
動物園のある「レジャーの丘」。
そして、歴史を伝える「国史跡」となった、今。
どの時代にも、人がここに集まり、暮らし、楽しみ、そしてまた次の時代にバトンを渡してきました。
森を歩くとき、いまお話ししたような“見えない流れ”があることを、ふと想像してみてください。
歴史を知ることは、いま感じている風や匂いを、少しだけ深くしてくれることでもあるのです。
この丘の歴史を胸のどこかに置きながら、どうぞ、公園の奥へとお進みください。