Life-Time Diversity(智積院)by SOUND TRIP

あなたがいる智積院は、不思議なご縁が交わっているお寺だ。

智積院は、もとは和歌山県にある根来寺の中にあった。そこは、多いときには6,000人以上の学僧が過ごす巨大な寺院だったという。大勢いる僧侶の生活をまかなうために農民や職人、商人などが集まり、根来寺は寺というよりも賑やかな街のようになっていたそうだ。武士が力を持っていた当時、宗教都市は自衛のために兵士を雇って武装することが多かったが、根来寺は力が大きくなり過ぎた。それを脅威と感じた豊臣秀吉によって、根来寺は焼き討ちに遭ってしまう。
この難のとき、学僧を率いて高野山に避難したのが智積院の住職、玄侑(げんゆう)僧正。彼は根来寺を脱出したあと、高野山に身を寄せながら智積院の復興を願っていた。そうして時代が進み、徳川家の戦を加持祈祷した縁から、秀吉の息子・鶴松を弔っていた祥雲寺の一部が与えられたのだ。そこに現在の東山にあたる場所へ、智積院が移ることになった。

東山に移ってからの智積院は根来寺時代に並ぶほど発展したと伝えられている。真言宗の道場として修行する僧侶が増え、一時は800人を超える学僧がここで生活していたそうだ。それだけ人数が多ければ生活音も大きなものになったのだろう。

「粥をすする音が七条大橋まで聞こえてきた」という言い伝えも残っている。智積院から七条大橋までは約700メートル。それだけ離れたところから食事の音が聞こえるとは、当時の学僧の多さが伺える話である。この話には「上げ下げする箸の音が聞こえた」「歩く学僧の靴の音が聞こえた」などのバリエーションがあるが、それだけ僧侶の統率がとれていたという話だ。
智積院は現代でも修行道場としての役割を保っている。金堂では日々智積院の僧侶がお経をあげ、修行に励んでいる。朝夕にお堂に入れば、その姿を見られるはずだ。当時のように多くの僧侶はいないが、お勤めに励む彼らの姿を見れば、繁栄していた智積院の姿も想像できるはず。

秀吉によって焼き討ちにあった智積院は、奇しくも秀吉の命で建てられた寺に居を構えることになった。その後、境内は徐々に拡大していき、その過程で長谷川一門の障壁画も智積院が管理することになる。
そう、この障壁画もまた、秀吉の命によって生まれたものだった。
秀吉が依頼してつくった等伯の障壁画、かたや秀吉によって流浪の寺になっていた智積院。ふたつの線は、奇妙な縁で交わっていた。

いまから聞いていただくSOUND TRIPの収録は、金堂のお勤めからはじまった。お経の音や、僧侶が修行の過程で歩いている足音、境内に集まる鳥たちの鳴き声、そしてお寺の近くを走る交通の音。あらゆる音の交わりを組み合わせた音楽になっている。

アーティストは、原 摩利彦氏。ピアノを使用したポスト・クラシカルから独創的な音響作品まで、さまざまな制作活動をしている彼の視点でみた智積院の音楽はどのようなものなのか。


ここからは、アーティストの声をお伝えする。


「境内の中にいくつかの時間が在ったのが印象的でした。修行僧たちの過ごす日々の傍らで裏山には鳥たち独自の世界がありました。朝のお勤めでは宿泊客と私たち外からやってきた人もお堂に集い、読経とお焚き上げが行われました。重なる声の中に入り込む時間感覚は、手元でまわしている録音機が示す時間経過とは違ったものでした。 智積院は外界から孤立した場所ではなく、日常世界となだらかに繋がっています。境内の中でも東大路通の交通の音が聞こえ、江戸時代には七条大橋まで修行僧たちの箸を置く音が届いたとも言われているそうです。 この楽曲では、フィールドレコーディングとその他の音との境界はときに曖昧にしてあり、複数の時間が混ざり合い積み重なることで音楽を作り上げています。音が小さくなると、目の前の名勝庭園の水音が聞こえてくることでしょう。音楽が終わった後の少しの間、この世界のすべての音が以前よりもいきいきと聞こえてきたら幸いです。」 ー 原 摩利彦


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