次にバスが向かうのは「二十四の瞳映画村」。二十四の瞳は小豆島出身の小説家である壺井栄の代表作で、小豆島を舞台に1人の女教師と12人の教え子たちとの心の交流を描いた名作です。

1954年の小説の発表からわずか2年後に映画化されて大ヒット。小豆島の名前が全国に知れ渡ることになりました。舞台として描かれた岬の分教場は現在も保存されています。そして、リバイバル映画のためにオープンセットとして造られたのが二十四の瞳映画村です。本物そっくりの岬の分教場をはじめ、壺井栄文学館、映画館などがあります。

二十四の瞳映画村をより楽しんでいただくために、小説のあらすじを聞いていただきましょう。

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十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。

昭和3年4月4日、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の岬の先にある農山漁村(のうさんぎょそん)の名が全部あてはまるような、小さな村の分教場に、大石先生は洋服を着て自転車に乗ってやってきました。その小さな村は入江の細長い岬のとっぱなにあったので対岸の町や村に行くには、小舟で渡るか曲がりくねった山道をてくてく歩いていくしかありません。交通がすごく不便なので、小学校の生徒は4年生までが村の分教場にゆき、5年生になったら、5キロ先の本校へ通うことになっていました。

分教場では、今日から小学生になる、十二人の子供たちが大石先生を待っていました。

「さ、みんな、じぶんの名前を呼ばれたら、大きな声で返事するんですよ。――岡田磯吉(おかだいそきち)くん!」

岡田磯吉は、まっさきにじぶんが呼ばれ、生まれてはじめてクンといわれたことでもびっくりして、返事がのどにつかえてしまいました。

「岡田磯吉くん、いないんですか」

すると、ずぬけて大きな男の子が、びっくりするほど大声で、答えました。

「いる」

「じゃあ、ハイって返事するのよ。岡田磯吉くん」

返事した子の顔を見ながら、その子の席へ近づいてゆくと、二年生がどっと笑いだした。本物の岡田磯吉は困って突っ立っています。

「ソンキよ、返事せえ」

「みんなソンキっていうの?」

先生にきかれて、みんなは一様にうなずきました。

「そう、そんなら、磯吉のソンキさん」

また、どっと笑うなかで、先生も一緒に笑いだしながら鉛筆を動かし、その呼び名をも出席簿に小さくつけこんだ。

そうして、おしまいの片桐コトエの出席をとったときにはもう、四十五分の授業時間はたってしまっていました。今日はじめて教壇に立った大石先生の心に、十二人の一年生の瞳は、それぞれの個性にかがやいて見えたのでした。

大石先生と村の子供たちはすぐに打ち解けました。ところが、2学期が始まって間もない頃、大石先生はいたずらっ子が掘った落とし穴に落ちて、アキレス腱を切る大けがをしてしまいます。

「おなご先生、いつんなったら、くるんじゃろうなあ」

半月以上も学校休んだ大石先生を心配した子供たちは、みんなで相談して先生の家まで歩いて行くことにしました。しかし先生の家のある一本松までは8キロも先だったので、わら草履が切れて、裸足になると、足の裏には血がにじむ子もいました。

ついにコタエが泣き出しました。その泣き声につられてみんなも泣き出しそうになっていました。そのときでした。ププー、警笛とともに、乗合バスがもうもうと砂埃を立てて走ってきました。そのバスの窓に、大石先生の顔が見えたのです。

「せんせえ!」

「おなごせんせえ!」

みんなは夢中で走りました。バスを降り松葉杖に寄りかかって、みんなで来るのを待っていた先生の顔を見た子供たちは、安心して先生の家できつねうどんをご馳走になり、一本松の前で記念写真を撮りました。

二十四の瞳の子供たちは、麦飯を食べて生き生きと育ちました。しかし、年月は流れ、日本は戦争への道を進めてしまいます。

日本中の男の人は、兵士として命をかけて戦うことが名誉であると教えられ、信じさせられていました。日毎に広がってゆく戦争の渦は、小さな村にも押し寄せ、何人かの少年航空兵が出ました。

「航空兵になったらぜんざいが腹いっぱい食えるんだ。」

かわいそうに年端もいかぬ少年の心を腹いっぱいのぜんざいで捉え、航空兵を志す貧しい家の少年もいた。しかもそれで少年はもう英雄なのです。貧しかろうと、そうでなかろうと、親に無断で学徒兵をこころざせば、そしてそれがひとり息子であったりすれば英雄の価値はいっそう高くなりました。

出発の日、大石先生は一本松の記念写真を手に見送りに来て、小さな声で

「からだを、大事にしてね。名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ」
「先生だいじょうぶ、勝ってもどってくる」

生きて戻るなどということは、もう大きな声では言えない時代になっていたのです。先生は涙を流しながら見送りました。その後、長く続いた戦争は、多くの命を奪い、1945年にやっと終わりました。

戦争が終わった次の年、再び分教場に戻った大石先生は、昔の教え子たちの歓迎会に招かれましたが、12人いた子供たちは7人になっていました。貧しさから奉公に出され、その無理がたたって、胸の病で死んでしまったコトエ。

「ぼくは兵隊になって戦争に行くんじゃ」と胸を張っていた子供たちはもういません。歓迎会に出席した磯吉は、戦争で目に怪我をして帰ってきていました。誰が持ってきたのか、1枚の写真が回されました。いかにも見えそうな格好で写真に顔を向けていた磯吉の姿に、隣のキッチンは心配そうに言いました。

「ちっとは見えるんかいや、ソンキ」

「目玉がないんじゃで、キッチン。それでもな、この写真は見えるんじゃ。な、ほら、まん中のこれが先生じゃろ。その前にうらと竹一と仁太が並んどる。先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ。マッちゃんが左の小指を一本にぎり残して、手をくんどる。それから――」

磯吉は旧友の1人1人を指で押さえてみせるのですが、それは少しずつずれたところを指していました。相づちの出ないキッチンに代わって、大石先生は答えました。

「そう、そう、そうだわ、そうだ」

あかるい声でいきをあわせている先生の頬を、涙の筋が走っていました。

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いかがでしたでしょうか。ご紹介したのは小説のほんの一部分です。二十四の瞳映画村を訪れたあとに小説を読んでみると、きっといろんな絵が浮かんでくることでしょう。今見えている車窓からの風景も、その舞台のひとつです。到着まで風景を見ながらお待ちいただけたらと思います。

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