立山信仰の本質は〈Reborn〉

「神々が宿る山」として、はるか昔から信仰の対象だった立山。独自の信仰を築き上げ、やがて修験場の聖地として全国に知られるようになりました。かつてはこの芦峅寺の周辺にも、修行に励む者たちのための宿が立ち並んでいたといいます。

その立山で山岳ガイドをしているのが、佐伯知彦さんです。佐伯さんは、江戸時代に立山を訪れた庶民の登山を案内する「仲語」の家系に生まれました。先祖がしていたように、立山を訪れた人たちにその魅力を伝えています。

ガイドでは「立山曼荼羅」を使います。立山の地形をもとに、その信仰の世界観を表現した絵画です。50点ほどが現存しており、佐伯さんは富山大学芸術文化学部の学生と一緒に、現代版としてアレンジした「新立山曼荼羅」を製作したこともあるといいます。

立山芦峅寺の宿坊主たちは、この曼荼羅を持って全国へと信仰を広め歩きました。持ち運びやすいように巻物状になっているそれを広げて、立山信仰のはじまり、山の中にあるという地獄と浄土、数々の伝説を巧みに話して、信仰へとつなげるのです。その話は、時代や地域に合わせて変化します。疫病が流行っていれば疫病退散の物語に、人々が飢えていれば豊作につながる物語になりました。

では、ヘルジアン・ウッドを訪れた人に佐伯さんが立山信仰を伝えるなら、どんな物語になるのでしょう?

「立山信仰の本質は〈Reborn〉だと考えています。この世を捨ててあの世へ入っていき、心をきれいにして生まれ変わって帰ってくる、というものですね。

ヘルジアンウッドは製薬会社が運営している、ハーブを使って心身をサポートする施設ですよね。薬は体調を崩した時に使うものですが、ヘルジアンウッドがアプローチするのはその前後の段階。心身を労わり、薬を使わないで済む状態に保とうとする考えがあると聞きました。

体に良いものを食べ、美しい景色を見て、スパやサウナでリラックスしながら自分のこれまでを見つめ直す……。そうして心と体をじっくりメンテナンスすることは、ある種の生まれ変わりではないでしょうか。立山信仰の〈Reborn〉の思想とも通じ合うものだと思います」


芦峅寺の周辺には、「佐伯」という姓の家が多くあります。どの家の話をしているかわからなくならないように、佐伯家はみなそれぞれに屋号を持っています。

佐伯知彦さんは代々続くガイドの家系の四代目で、ガイド屋号は「平蔵」。これは、明治から昭和にかけて立山の案内人として活躍した、佐伯さんのひいおじいさんの名前です。劔岳の別山尾根を初めて踏破した人物でもあり、劔岳には「平蔵谷」と名付けられた谷もあるほどです。

佐伯さんも、幼い頃から立山の自然に親しみながら育ちました。山を愛する家系の誇りをかけて、2019年には一家で誰もなし得ていなかったエベレスト登頂を果たします。富山県人として初の快挙でした。

現在は装束姿で立山をめぐるツアーなども開催している佐伯さん。立山の歴史や文化に関しても、聞けばなんでも教えてくれます。

立山登山というと、通常は浄土山、雄山、別山の三山を踏破することを指します。この三山にまつわる話も、立山信仰と絡めて教えてくれました。

「〈立山に ふり置ける雪を 常夏(とこなつ)に 見れども飽(あ)かず 神(かむ)からならし〉。奈良時代の歌人だった大友家持は、立山をそう詠みました。この時、〈たてやま〉ではなく〈たちやま〉と詠んでいます。

そもそも、立山という名前は、平野から見た時に屏風のように立っている姿からきたものだとも、〈太刀山〉から転じたものとも言われます。太刀、つまり剣のことですね。大伴家持が詠んだ〈たちやま〉は、険しい剱岳のことを言っていたのだろうと思います。見ればわかる通り、シンボリックな山ですから」

実際、かつての修験者は剱岳にこもって厳しい修行をしていたといいます。明治時代には、剱岳に登った人が当時のものとみられる錫杖を発見しています。ではなぜ、剱岳から別の三山へと登る山が移り変わったのでしょうか?

「江戸時代の後期になると、立山信仰は人々の行楽として親しまれるようになっていました。立山登山が民間に浸透していく中、剱岳のように険しく急な山は、大勢の人が登るにはあまりにも危険です。この変化の中で、代わりの山として三山が選ばれたのでしょう。

面白いのが、かつては修験者の聖地だった剱岳が、時代が下ると〈地獄の山〉として語られるようになっていったことです。立山曼荼羅を見ても、まるで針の山のようにおそろしく描かれています。そうすることで、人々が近寄らないようにしていたんですね」

〈地獄の山〉として遠ざけられた聖地。しかし剱岳への信仰は、思わぬかたちで残されていました。

「浄土山、雄山、別山の山頂には御堂がありました。御堂に手を合わせた時、どれもその先には剱岳があるようにつくられていたんです」

現在の御堂は移転などにより、手を合わせても必ずしも剱岳の方を向くわけではありません。しかし、雄山だけは当時と同じように、手を合わせた先に剱岳があります。

佐伯さんは、修験者の具体的な修行についても話してくれました。立山信仰では、「六禅定」と呼ばれる修行をおこなっていました。三山への登山も、この修行の一部に組み込まれています。浄土山が「過去」、雄山が「現在」、別山が「未来」をつかさどり、登ることで自分の人生全体を見つめ直すのだといいます。

浄土山は、これまでを振り返る過去の山。「六根清浄」の呪文を唱えながら山に登ることで、自分のもっとも醜い部分を清めていきます。浄土山登山は、六禅定のうちの一つ、「極楽禅定」にあたります。室堂から浄土山へ向かうルートでは、自分の影の周りに虹色の輪が浮かび上がるブロッケン現象が起きやすくなります。それがまるで阿弥陀さまのように見えることから、立山の人々はこの山に浄土を重ねたようです。

雄山は、現在を見据える山。自分の職業や生活を見つめ直す場所です。標高3003メートルの岩山の上に立つ峰本社で手を合わせれば、その先には剱岳があります。

別山は、未来に目を向ける山。この山の下りは、六禅定の「走り禅定」にあたります。急な坂は、足元に集中していなければ転んでしまいます。そのことから、雑念があると転んでしまう、とにかく無心で走って煩悩を捨てる試練の場とされました。

「やましいことがない人はいない。山に入って過去から現在、そして未来をしっかり見据えて生まれ直すのが、立山信仰の思想なんです」

今いる場所から少し坂を登った先には、この世とあの世の境界の橋とされた布橋や、迫力ある表情をした閻魔様や、女人禁制だった時代に女性たちを救う存在だった「おんばさま」の像が鎮座する閻魔堂があります。立山信仰をもっと詳しく知りたい人は、足を伸ばしてみましょう。

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