リバーサイド嵐山に、そして、嵐山という町にようこそ。これから散歩に出かけるみなさんに、試してみてほしいことがあります。それは、犬や猫の五感を想像しながら歩いてみることです。人間は目で見ることを得意とし、視覚に頼って世界を見ています。しかし、そうではない動物たちはどんな世界を見ているのでしょうか。

まずは、嗅覚。嗅覚は犬が最も得意とする感覚で、犬の鼻は人間の10万倍も敏感であるといわれます。つまり、犬は目ではなく鼻で世界を見ているのかもしれません。みなさんも、嵐山を散歩しながらその感覚を想像してほしいと思います。

たとえば、嵐山のシンボルである渡月橋。大きな川にかかる長さ155mの渡月橋を、今日もたくさんの観光客が行き交っています。犬の視覚においてもその風景は見えていることでしょう。しかし、犬の鼻はより多くの世界を感じています。川沿いに伸びる堤防の道にある緑の芝生の臭い、そこには地元の人が犬を遊ばせた痕跡が残っているかもしれません。ぴょんぴょんと飛び跳ねながら走りまわったことで匂いたつ芝生の香り。その匂いを探っていくと、どうやら散歩したのは朝の時間。その匂いの足跡を追いかけていくと、橋の向こう側の小道をかきわけた先に民家があり、どうやらそこにご主人と暮らしているようだ。

そう思った矢先、ふと風がまた別の臭いを運んでくる──といったふうに、犬が匂いで見ている世界では、風景が時間軸を越えて広がっているのかもしれません。みなさんも、犬の気持ちになって嗅覚を研ぎ澄ませてみてほしいと思います。

犬が嗅覚の次に得意としているのが聴覚です。高い音やかすかな音など、人間には聞こえない音も聞いていることでしょう。猫もまた聴覚を得意としています。猫は40%の情報を聴覚から得ているともいわれ、ネズミなどが発する高音に敏感です。とりわけ、音が鳴る方角を感知することは犬より得意とされています。

あなたもぜひ耳をすませてみてください。渡月橋の背景に広がる山々、その裏側から保津川の川下りをしている人たちの歓声が風に乗って聞こえてくる。それも次から次へ。いったい、何艘の船が川下りしているのでしょうか。ガタンゴトン、そこに嵯峨野トロッコ列車が走る音が交差する──あなたにもそんな音が感じられるかもしれません。はたして、犬や猫はどんな音を聞き、どんな世界を目にしているのでしょうか。

逆に、視覚は人間のほうが得意です。遠くにあるものを見分ける視力において、人間は犬の3倍は優れているといいます。つまり、あなたが100m先から近づいてくるバスの姿を目にしたとしても、犬は30mぐらい近づいてくるまで視覚で見ることはできないことになります。もっとも嗅覚で気づいているかもしれませんが、ぜひ周りに気をつけて散歩をお楽しみください。ちなみに、視野の広さは犬のほうが広いです。人間が投げたフリスビーを犬はとんでもない角度からキャッチすることからも、そのことが伺えます。もしかすると、あなたの斜め後ろには有名な舞妓さんが歩いているかもしれません。犬はその姿を見て驚いているかもしれませんが、あなたはそのことに気づかないまま通り過ぎているかもしれませんね。

味覚もまた人間が得意とする分野ですが、犬や猫は嗅覚に優れているぶん、香りで味わう部分が大きいといいます。リバーサイド嵐山では散歩のおやつもご用意しています。また、忘れてはならないのが触覚です。みなさんが犬や猫とふれあうのに欠かせない感覚ですが、このガイドには「散歩のATONI」というコンテンツもあります。そこには犬や猫の聴覚をふまえた周波数でリラックスできるとされる音楽を収録しています。ホテルの部屋に戻ったら、その音楽を聞きながら、たくさんのスキンシップをとってあげてくださいね。

さて、ここからは、平安貴族のゆかりが残る嵐山で、犬や猫の歴史物語について聞いていただきたいと思います。


日本で犬が飼われるようになったのは、いつの時代からなのでしょうか。

それは、およそ1万年前。縄文時代にさかのぼると言われています。というのも、縄文時代の貝塚で犬が人の手によって大切に埋葬された痕跡が残っているのです。

はたして、その出会いときっかけとは、どのようなシーンだったのでしょうか。

犬の祖先が狼であるとすれば、大きな神と書いて「大神」と呼ばれた神聖な獣。そんな近寄りがたい狼の中で、神の使いのように人々に近づいてくる種があらわれた。縄文時代は狩りの時代です。ある日、狩猟を手助けしてくれたことをきっかけに、分け前を二分した。それから度々、狩猟をともにするうちに飼い慣らしていった人がいたのでしょうか。それとも、ある日、群れからはぐれた狼の子どもを気まぐれに育ててみたところ、偶然にも人に懐いたことをきっかけに村の一員になっていったりしたのでしょうか。

いずれにせよ、牛や馬が日本にもたらされたのは弥生時代になってから。そのことからも日本人と犬の歴史は古いと言えることでしょう。弥生時代になると、大陸から稲作の文化とともに別の種である弥生犬が日本にもたらされます。狩りをする機会も減ったことで、縄文犬はときに追いやられ、ときに交配しながら弥生犬とひとつになっていきます。

それから奈良の大和朝廷の時代には「犬養部(いぬかいべ)」といわれる、犬を飼う部署が設けられました。その犬たちの役割は門番。つまり、番犬であったと考えられています。しかし、大化の改新のころにはお役御免となり、犬たちは無職となります。

奈良から京都へ。都が移った平安時代に宮廷で可愛がられていたのは、もっぱら猫であったといわれています。紫式部の「源氏物語」の中でもその様子が描かれています。日本の貴族にとっては、中国から贈られた猫をはじめて飼ったときから猫はペットであり、ネズミを捕るかどうかは重要ではなかったといいます。

一方、犬に関する記録は少ないのですが、かの有名な清少納言の「枕草子」には、「翁丸」という名前の犬に関するエピソードが残されています。要約しながらご紹介しましょう。

──むかしむかし、天皇がかわいがっていた猫がいました。その猫には位があたえられ、乳母もあてがわれているほどでした。ある日、部屋の隅っこでひなたぼっこしていた猫を、乳母が「こっちへおいで」と呼びかけました。しかし、猫は言うことを聞きません。そこで、乳母はそばにいた翁丸という犬に「あの猫を嚙んでやりなさい」と冗談を言いました。

すると、冗談のわからない翁丸が、猫に飛びかかって行きました。それだけならよかったのですが、その瞬間を偶然にも天皇が目撃してしまったので、さぁ大変。天皇は怖がって逃げ込んできた猫を懐に抱き、すぐさま役人を呼ぶと「翁丸をこらしめて、犬島へ流してしまいなさい」と命令しました。こうして翁丸は犬島に流されてしまったのです。

それから数日が経ったころ、宮中に犬のけたたましい鳴き声が響き渡ります。どうやら、翁丸が帰省本能で戻ってきてしまい、役人が再びこらしめているというのです。すぐにやめさせようと駆けつけた人もいましたが、役人に聞くと「すでに死んでしまったので門の外に捨てた」と言うのです。

「さすがに翁丸がかわいそうだ」と宮中で噂になっていたその夜、体中がはれあがった犬が、うめきながら歩いていました。何人かが「お前は翁丸か?」と声をかけたのですが、なんの反応もありません。その結果、その犬は翁丸ではないということになりました。

翌朝、あいかわらず宮中の柱の下でうずくまっている昨夜の犬を見ながら、「翁丸にはかわいそうなことをした、死ぬときはどんなにつらかったろうか、生まれ変わったら何になるであろうか」などと話し合っていると、その犬が、身をふるわせ、涙を流しはじめるではありませんか。

「やはりお前は翁丸か」そう呼びかけると、犬は地面にひれ伏して、大げさな鳴き声を上げました。宮中の人たちはほっとして、天皇も感心したり喜んだりしました。そんなこともあって、天皇の怒りも収まり、翁丸は元気に動きまわるまで回復していきました。

事件のあらましはこのようなもので、そのことを書き留めた清少納言は「それにしても、人間に同情されて泣くのは人間だけだと思っていたのに、身をふるわせて鳴き声を上げた翁丸は、いじらしく感動的だった」と文章を締めくくっています。

現代からすると、かわいそうな話を聞かせてしまって申し訳ありませんが、この話から平安時代の宮中では猫がたいへん可愛がられていた一方で、犬が虐げられていたかといえば、そうでもなく、普通に宮中をウロウロしていた時代背景が垣間見えます。

それから平安時代が終わり、鎌倉時代になると犬は鷹狩りの猟犬になり、室町時代になると南蛮船から西洋の犬がもたらされます。同時にネズミ除けとして船に乗り込んでいた海外の猫も日本にやってきます。その物語はほかに譲ることにしましょう。京都、嵐山が栄えた平安時代の犬や猫はどんな世界を見て、どんなふうに暮らしていたのでしょうか。あらためて、五感で感じ取りながら、嵐山の散歩をお楽しみください。

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