八鬼山を越えた巡礼者は民家の町並みを過ぎ、三木里のなだらかに広がる海岸を見てほっと一息ついた事でしょう。この海岸には4キロ先の曽根町に行く渡し船がありました。険しい八鬼山越えに疲れ果てた巡礼者は多少お金がかかっても楽に行ける海の道を渡し船で行ったことが道中記からもうかがえます。しかし、お金を持ち合わせていない巡礼者は次の峠を歩いて越えて曽根まで陸路で行きました。

江戸時代、三木里の人々は行き倒れた巡礼者や、ケガをして歩けなくなった巡礼者を八鬼山越えで尾鷲まで運送する村継(むらつぎ)の役割を担っていました。若者から老人に至るまで村継の人足をつとめたそうです。村継のお金は村で集めて負担しました。地元の人々による福祉の制度のおかげで旅ができたわけです。

八鬼山越えの旅では大変な苦労をしましたが先人の苦労を偲び、心に残る古道歩きができたのではないでしょうか。西国一の難所といわれ、狼や山賊にも襲われたとされる険しい山道。それでも、なぜ人々は巡礼を続けたのでしょうか。この旅であなたが見つけた墓標の数々、そして、さまざまな歴史の足跡を思い出しながら、旅路を振り返ってみてもらえたらと思います。

※このガイドは、取材や資料に基づいて作っていますが、ぼくたち ON THE TRIP の解釈も含まれています。専門家により諸説が異なる場合がありますが、真実は自らの旅で発見してください。

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