潮待ち、風待ち、港町。それはどういう場所なのでしょう。
江戸時代、人々は瀬戸内海のほぼ真ん中にあるこの港に船を泊め、船の背中を押してくれる順風が吹くまでの時間を御手洗で過ごしました。それは1日で済むこともあれば、数日に渡って風を待ち続けることもありました。港町には同じように風待ちをしている人たちが集い、全国各地の商人や船乗りだけではなく、参勤交代の大名や江戸幕府の役人、琉球からの使節団やオランダ人も町を歩いていました。
歴史を遡ってみると、古代より瀬戸内海は海の道でした。最初に瀬戸内海を漕ぎ出した舟は手漕ぎの小さな舟がほとんどで、陸地の海岸線に沿って進むことが基本でした。そのため、航路から外れていた当時の御手洗に港はなく、民家すらありませんでした。
やがて航海技術が発達し、江戸時代にはマストに大きな帆をあげて走る船が増えていきます。すると、船は海岸線に沿って進むよりも、沖に出て最短距離で各地を結ぶようになります。そのとき、にわかに御手洗という場所に注目が集まります。というのも、風を受けて走る帆船は、進みたい方向に風が吹いていないと船を走らせることができません。そのとき、「風を待つ」必要があるのです。そのあいだに嵐が襲ってきたらどうしよう……そんな目で地図を眺めてみてください。御手洗はちょうど島陰となり嵐から船を守ってもらえるのです。
風を待つだけではありません。実は、風向きよりも重要とされたのが潮の向きでした。というのも、瀬戸内海は潮の流れが激しく、時間によって流れの向きも変化します。そのため、当時の船は「潮を待つ」必要もありました。それに大きな船が泊まる港としては、ある程度の水深を確保する必要があり、それらの条件を奇跡的に満たしているのが御手洗でした。そのことに気づいた船がこの地に寄港しはじめると、隣村の人たちが水や食料などの補給物資を売りに来るようになります。そうして次第に賑わいはじめた御手洗に広島藩は正式な港を整備します。
そこにさらなる追い風が吹きます。当時の物流の大動脈である「北前船」と呼ばれる交易船が瀬戸内海を往復するようになったのです。その中で御手洗は重要な港となり、急速に発展していきます。もともと狭い土地であったため、埋め立てを繰り返して町は急拡大していきました。そうして、整えられた港町に北前船が次から次へとやってきます。水や食料を売っていた人たちは、その船から値段が上がりそうな物資を先に買い取り、値段が上がったところで売却するといったトレーダーのようなことをはじめ、富を築いていきます。
港町としての発展に大きく関係したもののひとつにお茶屋の存在もあります。若胡子屋など数件の茶屋がつくられ、最も賑わったときには100人の遊女がいたといわれています。
このようにたくさんの人が行き交うようになった御手洗には自然と人や物が集まり、文化が育っていきます。伊能忠敬などの有名人も御手洗を訪れ、幕末には吉田松陰や坂本龍馬なども訪れ、幕府を倒す運動に向けた密約を結ぶ舞台裏にもなりました。
しかし、江戸時代の終わりになると、御手洗の港町としてのライバルも増えてきて、港町としての人気にかげりが見られます。明治時代になると、産業革命によって帆をあげて走る帆船の時代が終わり、エンジンで走る蒸気船の時代がやってきたのです。人々は潮待ちや風待ちをする必要がなくなったことで御手洗を素通りする船が多くなり、御手洗という港町もまた帆を畳んでいくことになります。そして、繁栄を極めた江戸の町並みを残したままコールドスリープするかのようにしばらくの間、永い眠りにつくのでした。
はたして、御手洗にはどんな物語が残されているのでしょう。まずは「旧柴屋住宅」から旅をはじめてほしいと思います。あたりにはまさに江戸時代の町並みが広がります。有名なのは「うなぎの寝床」と呼ばれる細長い間取りです。江戸時代は間口の広さによって税金がかけられたので古い家は細長い間取りが多いです。はたまた、二階の高さが低いことに気がつくかもしれません。それは、二階があくまで倉庫であり、商人が暮らす場所ではなかったからです。士農工商の江戸時代、商人が武士を見下すかたちになってはいけないということで二階が低くつくられているのです。
そんな江戸時代の世界を歩きながら、御手洗に残された物語を拾い集めていきましょう。