〜柳河は 城を三めぐり 七めぐり 水めぐらしぬ 咲く花蓮〜

柳川にはどうしてこんなにたくさんの川が流れているのでしょう。その理由を知るには柳川の成り立ちに遡る必要があります。

あなたが立っている、その場所はかつて海でした。そこに川が運んでくる土砂がたまることで陸地が伸びていき、日本でいちばん広い「干潟」ができました。干潟とは海が干潮になったときに陸地となって現れるような土地です。そんなジメジメした湿地帯におよそ2000年前、家を建てる人があらわれました。しかし、大雨で川が増水したりすると、たちまち家は流されてしまいます。どうしたら、この土地に住めるのだろう。考えたのが、この地に溝を掘り、その土を盛り上げること。そうして土地を安定させて家を建てたり、田んぼを作ったりしたのです。それだけではありません。溝を掘ったところには雨水がたまります。その水を使って生活がしやすくなったのです。これが掘割の歴史のはじまり。時代が進むにつれて、それらの掘割が増えていき、水郷が築かれていきます。そして、戦国時代になると柳川に城が築かれ、城下町の掘割、城掘として高度に整備されることになります。

柳川城の城主が目指したのは、大きな川から一部の水を引き込んで、町中に網の目のように行き渡る掘割をつくること。それはトライ&エラーの繰り返しでした。掘割の水の流れをコントロールすることに失敗し、増水して町が水浸しになるたびに、その原因となった掘割を微調整する。そんな試行錯誤をひたすら繰り返していくことで、まるで精密機械のような掘割のネットワークが張り巡らされ、生活用水はもちろん、田畑をうるおし、排水するというシステムを完成させたのです。

なぜ、そこまでする必要があったのでしょう。実は、柳川は干満の差が6mと、日本でいちばん干満の差が激しい有明海に面しています。そのため、満潮になると海面が陸地より高くなります。想像できるでしょうか。あなたが立っている場所が海面より低い場所になるのです。ひとたび堤防が決壊すると海水が押し寄せてくることでしょう。それを防ぐために海沿いには頑丈な堤防が作られました。しかし、もうひとつの問題があります。それは、上流から流れてくる川の水です。通常であれば、川の水は海に流れ出していきますが、この場所が海面より低いとなれば、海に排水することができません。それどころか、川の水がどんどん町の中にたまってしまいます。そこで、掘割の出番です。柳川に張り巡らされた総延長930kmもの掘割に水を満たすことで水をもたせ、遊水させる。そうして干潮になるまで時間をもたせれば、再び海面は陸地より低くなり、海に排水することができます。そのために掘割が必要だったのです。

それから400年ものあいだ、この掘割のシステムを使い、掘割の水を飲んで暮らしていた柳川の人たちでしたが、昭和になって未曾有の大水害が起こり、再び町が水浸しになってしまいます。それを機に上流にダムを整備したり、水道の完備が進み、蛇口をひねれば水が出るようになります。掘割の水を汲みにいく必要がなくなった柳川の人たちは次第に掘割を必要としなくなり、いつしかゴミ捨て場となり、川の汚染が進んでいきました。やがて異臭を放つようになった柳川の掘割を暗渠にして塞いでしまおうという計画がはじまるのですが、そのとき、「郷土の川に清流を取り戻そう」と声を上げた人がいました。市役所のいち職員であったその人物は100回以上の懇談会を繰り返して住民の賛同を得ていきます。鍵となったのは「子供のころに川で遊んだりした原体験」でした。掘割がきれいだったころの記憶を思い出した柳川の人たちは、あのころの風景をよみがえらせようと、しばらく背を向けていた掘割と再び向き合い、数年かけてきれいに掃除をしていきました。そうして、再びよみがえったのが現在の水郷・柳川です。あなたが目にしている柳川の風景は、このような物語を経て今に残っているのです。

柳川にはどうしてこんなにたくさんの川が流れているのでしょう。その答えは、これまでの物語の中から見出すことができます。これから川下りで見られる風景をもとに、掘割のさらなる物語を深掘りしてみましょう。

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