新上五島町の中央に、標高439メートルの山がそびえ立っています。
山王山──古くは「御嶽(おんたけ)」とも呼ばれ、この島に暮らす人々にとって、特別な山として崇められてきました。
この山が、本格的に祀られるようになったのは、ある一人の人物の訪れがきっかけです。
その名は、最澄。
天台宗をひらき、比叡山延暦寺を築いた有名なお坊さんです。
時は、804年。16回目の遣唐使船が、日本を旅立った年。最澄はその船に、ひとりの僧として乗船していました。
彼が向かったのは「唐」。当時の世界で最も進んだ文明の中心でした。最澄はそこで、仏教の真髄を学ぶために旅立ったのです。
彼が乗っていたのは、四隻あるうちの第二船。同じ年の第一船には、もう一人の高僧・空海が乗っていました。
当時の遣唐使船には、エンジンはもちろん、羅針盤すらありません。
小さな木造船に数百人の使節団を乗せ、風を頼りにオールを漕いで進む、まさに命がけの航海でした。
その航路も、時代とともに大きく変化します。
かつては、壱岐・対馬を経て、朝鮮半島沿いを進む北のルートが用いられていました。
しかし、663年の白村江の戦い以降、新羅との関係悪化により、その航路は断たれます。
そこで、浮かび上がってきたのが五島列島でした。
地図で確認してみてください。この新ルートは唐への最短ルートであるものの、五島列島を最後に途中で立ち寄れる島はない。そんな大海原を横断する危険なルートが選ばれたのです。
遣唐使の航海は、嵐や漂流、座礁、さまざまな危険が待ち受け、結果として無事に往復できた船は、全体のおよそ半数ほどだったといいます。
祈らずにはいられない。そんな旅路の中、最澄はこの新たな航路に身を投じたのです。
そして、命がけの航海の末に唐へ渡った最澄は、最先端の教えを学び、帰国後、日本仏教の改革を進めていきます。
しかし彼は、ただ学びを持ち帰っただけではありません。帰国した最澄が行ったこと。それは「感謝」でした。
彼は再び五島を訪れ、自らの無事を叶えてくれたこの島に、深い感謝の祈りを捧げたと伝えられています。
そのとき、最澄が想いを託した山こそ、山王山。
最澄はこの山に、比叡山延暦寺の守護神「山王権現」を迎えました。
こうして、山王山は、ただの山ではなくなります。「祈りの山」として、この島の人々にとっての特別な存在となったのです。
二合目には「一ノ宮」、八合目には「二ノ宮」、山頂には「三ノ宮」が祀られ、登山道は「神殿」へと続く参道となりました。
山王山には、こんな伝承が残されています。
比叡山延暦寺では、1200年以上燃え続ける「不滅の法灯」が今も守られています。その炎が、万が一、消えてしまったとき。そのときは、ここ山王山に来て、再び火を灯すのだ──と。
また、かつてこの山に祀られていた仏像が、現在は極楽寺に安置されている重要文化財「銅造如来立像」である、という説もあります。明治時代の神仏分離によって、仏像は山から移され、極楽寺に迎えられたのではないか──と。
真偽のほどは定かではありません。けれど、山王山の祈りは、その後も確かに受け継がれていきます。
その証拠に、二ノ宮の近くにある岩窟から、時代の異なる17枚の鏡が発見されました。
「魂を映す」とされた鏡。それは、海の彼方へ旅立つ人々の願い、そして見送る者の祈りが込められたものだったのでしょう。その中には、中国から渡ってきた鏡も含まれており、大陸との交流を示す証ともなっています。
鎌倉時代、室町時代、江戸時代。祈りは時を越え、形を変えながら、この山に捧げられてきたのです。
いま、山王山に立つと、遠く水平線が見えます。
最澄が、空海が、見たであろう海。
そしてその先にある、唐の大地。
この島は、遣唐使が最後に見た日本でもあったのです。そのことを想像してほしいと思います。
空海はその想いを「辞本涯(じほんがい)──日本の最果ての地を去る」と記しました。
人が、祈りとともに旅立った場所。国境の島として、人々の行き来を見守ってきた山王山は、今もそのすべてを、静かに見つめ続けています。
なぜ、島に神様を祀るのか。
それは、航海の成功と生還を願うため。
そして、そのことに感謝する祈りのため。
山を拝み、海を仰ぎ、彼方へ旅立つ者を見送る。ここは、祈りと生が交差する境界だったのです。
祈りとは、生き抜くための願い。海の道を行く者にとって、祈りは、生きることそのものだったのかもしれません。