新上五島町の北の果て、津和崎。
この地に立って地図を見れば、長崎・平戸からこの海峡を抜け、五島の西海岸に沿って大陸を目指す。そんな航路が、自然と浮かび上がってくるようです。
この海を、遣唐使の船が、倭寇の船が、そしてキリシタンの信仰を運んだ船が行き交いました。
五島は、古くから「国境の島」と呼ばれてきました。
遣唐使の時代、この島は異国への出発点であり、帰還の地でもありました。
生きて帰れる保証のない航海。だからこそ、この島のあちこちに、祈りの痕跡が今も残されているのです。
そうした祈りの営みは、やがて時代とともに姿を変えながら、異なる宗教や文化をも受け入れる土壌を育んでいきました。
キリスト教が五島に伝わったのは、フランシスコ・ザビエルの来日から17年後、1566年のこと。
当時の領主はキリシタン大名となり、その信仰は瞬く間に広がっていったといいます。
しかし、豊臣秀吉や江戸幕府による禁教令によって、その灯は一度、消されることとなりました。
信徒たちは表舞台から姿を消し、仏壇や神棚を装って、密かに祈りを捧げ続けました。
潜伏キリシタン、彼らの信仰は、潜むことで、むしろ強く、深く、この島に根を下ろしていったのです。
やがて、本土の取り締まりが厳しくなると、五島に移り住む潜伏キリシタンも増えていきました。
けれど、その暮らしは決して恵まれたものではありませんでした。
この津和崎に辿り着くまでの道のりで、きっと体感されたことでしょう。
五島は細長い島に山が連なり、平地はわずか。すでに先住民が良い土地に集落を築いていたため、彼らは人里離れた山間を切り開き、段々畑を築いて、芋を育て、慎ましく暮らしたのです。
五島への移住を夢見た信徒たちは、こんな歌を口にしたといいます。
五島へ 五島へと皆行きたがる
五島 優しや 土地までも
しかし、そこで彼らを待っていたのは、想像以上に過酷な現実でした。
五島へ 五島へと皆行きたがる
聞いて極楽 見て地獄
二度と行くまい あの島へ
理想と現実の落差に戸惑いながらも、それでも人々は、この島で祈りをやめることはありませんでした。
現在、新上五島町には、29もの教会が点在しています。
その多くは、明治に入ってキリスト教が解禁されて以降に建てられたものですが、裏を返せば、それだけ多くの土地に、かつて密かな信仰が根づいていた証でもあります。
海を越えてやってきた文化。この島は、遣唐使の時代からそれらを拒まず、むしろ重ね合わせてきました。
その柔らかな受容のかたちは、まさにこの島の風土そのものなのかもしれません。
津和崎灯台まで来ると、そうしたすべての歴史が、一本の光となって集約されるようにも感じられます。
灯台の光は、航路を照らすだけではありません。この島が受け入れてきた祈りと文化の記憶を、今も静かに照らし続けているのです。
祈りの島、新上五島。その名が示すのは、近世のキリシタン信仰だけではありません。
遣唐使が祈った古代の航海の記憶も、倭寇が命を賭して渡った中世の海も、そしてキリシタンたちの秘められた祈りも。
そのすべてが、この島の風に、静かに溶け込んでいるのです。
※このガイドは、取材や資料に基づいて作成していますが、ON THE TRIP の解釈も含まれています。諸説ある部分もありますが、真実は、あなた自身の体験の中で見つけてください。
ON THE TRIP 編集部
文章:志賀章人
写真:本間寛
声:五十嵐優樹