夜明け前。空が白み始めるころ、「浜子」たちの一日は、もう動き始めています。
浜子とは、塩田で働く人たちの呼び名です。
竹原の町がまだ眠る中、塩田には砂をかき混ぜる音が微かに響き出します。
その音は、町の目覚まし時計のように、人々をそっと起こしていました。
汗をかいた額に、朝の潮風が吹き抜けます。
塩田の砂は、夜のうちに海水を吸って湿っています。その砂をむらなくかき混ぜ、塩田の表面に細かな筋をつけていく。
そうすることで、水分がより早く蒸発し、良い塩が育つのです。
整えた塩田には、柄杓で海水を撒いていきます。柄杓の扱いには熟練の技が必要で、撒く海水の量ひとつで塩の出来が変わります。
少なすぎても、多すぎてもいけない。一人ひとりの経験と感覚が、白い結晶の質を決めるのです。
海水を撒くたびに小さな虹が立ち上がり、一瞬の輝きを残して消えていく。
それはまるで魔法のようで、塩づくりという営みの象徴でした。
午前中は砂をかき混ぜ、海水を撒き、太陽と風の力を借りて塩分を濃縮する作業が続きます。
猛暑の中、少しでも気持ちを紛らわすため、浜子たちは浜子唄を口ずさみながら作業を行なっていました。
夏の強い日差しは容赦なく照りつけ、白い砂が目を焼くほど眩しい。
昔の浜子たちは、ふんどし一枚、裸足で働いていたといいます。
手や足の皮がむけ、塩が沁みる痛みも、やがて生きている実感に変わっていきました。
昼が近づくころ、作業は一度止まり、食事の時間が訪れます。
土手で摘んだ野菜の味噌汁、白ご飯にお漬物。
炊事係が小屋で用意した食事は、質素ながらも体と心を支える贅沢なひととき。
仲間たちと輪になって食べるひとときには、浜子たちだけの穏やかな時間が流れていました。
午後の作業は、赤と白に染め分けた旗の合図で始まります。
これは、太陽や潮の様子を見ながら決められる合図で、町全体が「塩の呼吸」で生きているかのようでした。
このころの砂は、しっかりと塩が付着していて、裸足では足の裏が痛いほどになっています。
こうして、たくさんの塩がついた砂を集め、塩分の濃い水をつくり、それを釜で炊いて塩にしていきます。
釜焚きの作業は、昼夜交代で真夜中まで続きます。火を絶やすわけにはいかず、長時間の熱との戦いは過酷なものでした。
完成した塩は船に積み込まれ、町の外へと運ばれます。
積み込みは満潮時に行いますが、ぐずぐずしていると干潮になり、船が座って動かなくなる。積み込みはいつも時間との戦いでした。
陽が傾き、空が茜色に染まるころ、浜子たちの作業はようやく終わりを告げます。
塩田が夕日に白く輝き、空に消えた無数の虹が、静かに明日の命を育んでいるように思えてきます。
帰り道、ふと立ち止まると、身体の汗が塩になって、ふんどしを白く縁取っています。
それを見て、ふっと笑みがこぼれる──「今日も、海と生きた」そんな実感が胸を満たします。
彼らは「どうして、こんなに大変な塩づくりを続けるの?」と問われたら、こう答えたかもしれません。
「竹原の塩は、海の味だけじゃない。この町の風も、光も、わしらの想いも、ぜんぶ詰まっとるんじゃ。塩がしょっぱいのは、涙の味じゃのうて、命の味じゃけぇの。」
その塩は、町の人々の食卓を支え、また遠く大阪や江戸、北海道まで全国津々浦々に運ばれて重宝されました。
それが届くと、人々は「タケハラが来た」と声を上げたといいます。そこには、ただの塩以上の、信頼が詰まっていました。
竹原は、この塩で富を築き、「塩の町」として名を馳せました。
やがて、その財産を礎に、酒づくりや、廻船業、学問へと営みを広げていきます。
それは、この町を未来につなぐ「新たな夢の結晶」だったのかもしれません。
さて、いま目の前にある旧森川家住宅の庭を見渡してみてください。
かつて、この先には果てしなく塩田が広がり、白い塩と砂の海が一面に輝いていました。
夏の光の中に無数の虹が立ち、町の人々が未来を信じる風景があったのです。
しかし、竹原で300年続いた塩づくりは、昭和に幕を下ろします。この家が築かれたのは、まさにその転換期でした。
当主・森川八郎は、塩田の一番浜だったこの場所に森川家住宅を築きました。
そして、自身も塩づくりを続けながら町長となり、塩田跡地に竹原駅や工場を誘致していったのです。
こうして塩田は新しい竹原の中心地へと生まれ変わり、町の拠点は少しずつ移動していきました。
だからこそ、古い町並みは開発されることなく奇跡的に残されます。
そして森川八郎が亡くなった年、奇しくも竹原の最後の塩づくりが終わったのです。
ここで思い浮かべた塩づくりの風景、その物語を胸にしまって、竹原の古い町並みを歩いてみてください。
町の格子越しに覗く人の息づかい、瓦や漆喰に刻まれた時の佇まい、軒先の一輪に漂う誇りの気配──
それらすべてが、「塩の記憶」を宿し、今もそっと息づいています。
虹を探すように、町の景色に目を凝らしてみてください。あなたの中には、どんな思いが結晶となって残るでしょうか。