現在の埋木舎の当主は大久保家。大久保家のルーツは徳川家康の祖父の時代から徳川家に仕えた旗本の三河武士の一族で、関ケ原の戦い後に井伊直政が彦根藩主になるタイミングで家康の命で彦根藩創設の「目付」として直政をサポートするというミッションで、彦根藩士となったのが初代大久保忠平で、その後、代々彦根藩の重役として井伊家に仕えた一族です。また、幕末に井伊直亮、直弼、直憲公と藩主三代にわたり側役として仕えたのが大久保小膳です。大久保小膳は直弼が茶道において自分の流派を立ち上げたとき、2番弟子となり「宗保」の茶人名を頂いています。まさに側近と言える立場でしたが、桜田門外の変によって事態は急変します。
直弼は後継者を指名しておらず、このままでは井伊家の存亡にかかわります。そこで、当時の大久保小膳は事件が起きたその日のうちに江戸から早駕籠と馬を繋ぎ彦根に速報を届けます。それも、通常は2週間かかかる道のりを4日で走ったといいます。長時間、馬や駕籠に乗っていると腸が動いて気持ち悪くなるものですが、腹巻きを強く締め、水以外断食で昼夜を問わずに走り続けました。
そして、彦根で2日間の会議をして、その決議を持って再び江戸に急行しました。その決議こそ、直弼の暗殺をひた隠し、直弼が後継者を公認したあとに病死したことにするというストーリーでした。この作戦が一時は功を奏しますが、その後の政変によって直弼への批判の声があがります。この追求を逃れるため、彦根藩より公文書の焼却命令が竜王寺清人と大久保小膳に発せられます。大久保小膳は、直弼の政治にまつわる文書を燃やしたと嘘をついて隠します。万が一、見つかったときに備え、文書の脇に爆弾も添えられていたといいます。もし秘密文書が見つかったらその爆弾で小膳は自害する覚悟だったそうです。そうして守り抜いた秘密文書はのちの時代に公開され、直弼の功績を裏付けることになりました。
彦根城もです。城郭が取り壊されていく中、大久保小膳は政府の重鎮、土方久元内務卿に必死の嘆願を続けます。その熱意に土方久元は「忠義動人」という言葉を贈ります。忠義は人を動かす。また、当時の彦根市長や元彦根藩士も彦根城保存に動き、やがてその想いが天皇にまで届き、天守の破壊は免れ、国宝彦根城の命を救うことにつながりました。
これらの大久保家の功績もあり、明治4年に井伊直憲公の計らいで、「埋木舎」を当時の大久保家の自宅と交換する形で拝領します。直憲公からは「直弼公の遺徳を偲ぶ縁として、大久保家子々孫々で埋木舎を守るように」とのお言葉も頂きました。
埋木舎を守ることで、井伊家の功績を受け継いでいくことを誓った大久保家でしたが、その後も苦難は続きます。大水害や大地震が起きるたびに私財を投げ打って修復。戦時中はアメリカと条約を結んだ井伊家の史跡を取り上げようと憲兵が押し寄せた日もありました。そのときは、当時の大久保家の三兄弟が白装束を着て「埋木舎を取りあげるなら俺たちの首を落としてから取れ」と言って追い返しました。その後、長兄が京都帝国大学の同級生であった近衛文麿(後の総理大臣)にも掛け合い、時の陸軍の幹部であった東条英機も動かし埋木舎を守りました。
戦後、1984年の未曾有の大雪で埋木舎の南棟が全壊する憂き目に遭いましたが、当時の大久保家11代当主大久保治男(大学教授)は国公費援助も受け2億円をかけ埋木舎の全館並びに庭園等を直弼居住の頃と一致させ7年かけて修復し平成3年(1991年)4月1日より長年の彦根市民の願いであった埋木舎の一般公開が実現しました。調査に訪れた当時の文化庁は江戸時代から石ひとつ動いていない埋木舎に驚いたといいます。
埋木舎時代の直弼の人格形成が幕末日本の外国の介入の圧力に負けず、戦争や植民地にならずに済んで国難を救った井伊直弼の真の姿・人物像が今日、埋木舎を見学され体感して頂いたことを嬉しく思います。
大久保家が守ってきたのは建物だけではありません。井伊家の足跡や直弼の精神性、それを伝える埋木舎の物語こそ、このガイドで語り継ぎたいと思います。埋木舎を見ずして井伊直弼は語れないのであります。
最後に玄関に戻ると、柳の木があります。直弼は柳が好きで、自分の人格を柳に例えたともいいます。やわらかく見えても根っこは強い。そんな柳のようにありたいと考えていたのでしょうか。直弼はのちに埋木舎を「柳王舎(やぎわのや)」と呼んだといわれています。
「百聞は一見にしかず」埋木舎をみることで、井伊直弼の茶道・禅・平和思想等、文化人の礎が肌で感じられたと思います。
埋木舎に触れることにより、井伊直弼の真の姿は見えてくるのです。