窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたに淡霞む
山は上総か房州か
1872年、日本に初めて鉄道が走りました。
その始発は新橋、終着は横浜──29キロの旅路です。
蒸気機関車が汽笛を鳴らし、黒い煙を空へ吐き出しながら進んでいく。
その線路は芝浦の海の上に築かれた防波堤を走り抜けていました。
車窓の下には波が打ち寄せ、白いしぶきが窓から飛び込んでくる。
文明開化の象徴は、まさに「海の上を走る鉄道」の風景でした。
この鉄道をきっかけに芝浦は、漁師町から「海辺のリゾート地」へと姿を変えていきます。
月見の行事はやがて夕涼みや舟遊び、花火と結びつき、潮干狩りに加えて海水浴を楽しむ人々も集まりました。
海水を沸かして温泉に仕立てる温泉旅館も登場し、やがて芸者の姿が現れると、三味線の音とともに花街が広がっていきました。
芝浦の歴史はまた、埋め立ての物語でもあります。
海の上を走っていた鉄道は、いつしか陸に取り込まれ、花街は線路の外側へ広がっていきます。
同じ頃、埋め立て地にはのちに東芝となる芝浦製作所や東京ガス、ヤナセといった工場群が立ち並び始めました。
芝浦の海を吹き抜ける風は、もう魚の匂いだけではありません。
新しい文化の香りをまといながら、それは文明開化の東京を告げる“港の匂い”となっていったのです。
そして大正。
芝浦に、大きな転機が訪れます。
1923年9月1日、午前11時58分。
突如、地鳴りが走り、大地がうねりをあげました。関東大震災です。
木造家屋の多い東京の町は、瞬く間に炎に包まれ、芝浦や竹芝の一帯も例外ではありませんでした。
鉄道も道路も途絶え、物資を運ぶことができない。
そんなとき、東京湾に再び注目が集まり、全国各地から救援物資を積んだ船が東京を目指しました。
しかし、東京湾は遠浅の海。大型船は岸に寄りつけませんでした。
そこで、芝浦の埋立地が急ごしらえの臨時集積所となります。
船から艀に積み替えられた米や木材、医薬品が山のように積まれ、都心へと運び込まれていきました。
一方、日本橋の魚河岸もまた壊滅的な被害を受け、築地への移転が決まるまでの三か月間、芝浦の浜が「臨時魚市場」として賑わいました。
この震災は、「東京に本格的な港が必要だ」という声を決定的に高めました。
もはや横浜に頼るだけでは、東京は立ち行かない。
こうして、東京初の本格的な埠頭となる「日の出埠頭」が完成。
続いて芝浦埠頭、竹芝埠頭も整備され、竹芝埠頭には震災の焼け跡の土が使われたといいます。
そして1941年、長年の悲願だった「東京港」が、ついに開港したのです。
「港区」という名前が生まれたのは、それから数年後のこと。
東京港の発展と、新しい区の成長への願いを、その名に託したのかもしれません。
その後、戦争を経て日本は高度経済成長の時代を迎え、東京オリンピックが開かれます。
芝浦には羽田空港へと伸びる高速道路が走り、その上をモノレールが貫いていきました。
しかしその裏で、かつて潮干狩りや月見で賑わった海辺は姿を消していきます。
経済成長の陰で東京湾の水質は悪化し、漁師たちは漁業権を手放さざるを得ませんでした。
それでも、この地に積み重ねられた記憶が、人々を再び岸辺へと誘い続けていました。
1980年代、「ウォーターフロント開発」という言葉が社会を賑わせます。
倉庫や埠頭の一角が改装され、レストランやディスコに加えてアートギャラリーも登場。
芝浦は文化発信の拠点として大いに話題を集めました。
その象徴が「ジュリアナ東京」。芝浦の一角に忽然と現れた巨大ディスコには、開店初日から行列が絶えず、週末には数千人が押し寄せました。
煌びやかな照明、身体を震わせる重低音。女性たちはボディコンに身を包み、羽根扇を振りながらお立ち台で踊る。その光景はテレビや雑誌に繰り返し映し出され、「バブルの象徴」として日本中に刻まれていきます。
その風景は、過去の芝浦をどこか思い起こさせます。
江戸の浜が月見や潮干狩りで賑わったように。明治の芝浦が温泉や花街で彩られたように。
芝浦という土地は、時代ごとに姿を変えながらも、人々が集い、声を重ね、熱を生む「舞台」であり続けたのです。
そして今。
あの倉庫は再び役割を変え、先端的なオフィスとして利用されるようになりました。
周囲には高層マンションやオフィスビルが林立し、ディスコで熱狂した夜は、いまや遠い記憶のなかに沈んでいきます。
けれどもビルの隙間を抜ける潮風には、いまもどこか、あの時代の熱気が混じっているようにも感じられます。
――なぜ東京都“港区”なのか。
「港区」という名前は、過去の記憶を映すと同時に、未来への問いかけでもあります。
港をどう活かし、どう育て、どう次の世代へ渡していくのか。
今日あなたが竹芝の遊歩道から眺めた海。
その青の向こうに、どんな東京の未来を思い描くでしょうか。