複雑な潮流を意味する「潮湧く(しおわく)」──その言葉に由来するともいわれる塩飽諸島。その中に笠島集落があります。

江戸時代、塩飽の人々は「人名(にんみょう)」と呼ばれ、豊臣秀吉の時代以降、1,250石の領地を650人の船の仲間たちが力を合わせて治める場所として認められていました。ふだんは自らの土地を守りながら、いざというときには幕府の船として働く役目を引き受けていたのです。

その背景にあったのは「塩飽水軍」。彼らは武力ではなく、造船と操船の技術で力を発揮しました。戦国の世には信長や秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは、水軍の立場から、いち早く家康に敵の動きを伝えたといいます。その情報は勝敗を左右するほどで、塩飽の人々は幕府から一目置かれる存在となりました。
塩飽はまた、大工の町でもありました。三軒に一軒が大工であり、船大工や宮大工として腕を振るった彼らは、やがて「塩飽大工」と呼ばれ、瀬戸内を代表する技術者集団としてその名を残しました。

この地を歩けば、その力は石の風景として目に映ります。家々の基礎を支える巨大な石。数トンの石を、重機もない時代に人力で運び、隙間なく組み上げたその姿は圧巻です。一体、どれほどの資金力と技術力を備えていたのか。その事実を雄弁に語りかけてきます。
笠島集落は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往時の姿をいまも伝えています。

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