石と時間を積み重ね、今も堂々と立つ大阪城。
けれど、あなたの目の前にそびえる天守は、実は三代目なのです。
初代は、天下人・豊臣秀吉が築いた漆黒の大阪城。
二代目は、徳川二代将軍・秀忠が築いた白壁の大阪城。
そして三代目のいまの天守は、まるで二つの時代を重ねたように、下は白く、上は黒い。
漆黒の上層には、金色の虎がきらめいています。
まるで後世の大阪人の“虎好き”を先取りしていたかのようなデザインです。
では、この城の始まりには、どんな物語があるのでしょう。
もともとこの地に建っていたのは、石山本願寺。
浄土真宗のカリスマ僧・蓮如が隠居の地として選んだ場所と言われています。
当時は僧侶も戦う時代。ここは台地で、要塞を築くには格好の立地でした。
川を遡れば京都や奈良に行きやすく、近くには堺があり、商工業の発展にも最適。
そして何より、大阪湾に沈む大きな夕陽。
西方にあるとされる極楽浄土を象徴するその光景は、浄土真宗にふさわしい聖地そのものでした。
やがて石山本願寺の建立にともない、周囲には寺内町が形成されます。
台地に沿った坂道に町が広がったことから、この地は「小坂(おさか)」、のちに「大坂」と呼ばれるようになったといいます。
その繁栄ぶりを、海外の宣教師は「日本の富の大部分は、この坊主の所有である」と記録に残しました。
毎年の集まりには群衆が押し寄せ、門が開くや否や人波がなだれ込むほど。
さながら、いまの大阪の朝の満員電車のようだったのかもしれません。
そんな本願寺に、信長の野望が迫ります。
本願寺を目のかたきにしていた織田信長と、ついに戦争の火蓋が切られるのです。
石山合戦──その戦いは、なんと11年にもおよびました。
難攻不落。あの信長でさえ、ついに力で屈服させることはできなかった相手。それが石山本願寺でした。
結局、和睦の末に本願寺は和歌山へ移され、信長は大阪を手に入れます。
大阪を制すれば天下を制す。
おそらく信長は、この石山本願寺の跡に新たな城を築こうとしていたことでしょう。
しかし、本能寺の変によって倒れてしまう。
その夢を引き継いだのが、秀吉でした。
1583年、秀吉は大阪城の築城を開始します。
大阪城の立地は、日本のど真ん中。
石山本願寺が要塞を築いたように、古くから要衝とされてきたこの地は、秀吉にとってもまさに理想の場所でした。
瀬戸内海へすぐ出られるので、中国、四国、九州へも行きやすい。
さらにその先には朝鮮半島、大陸までも視野に入ります。
秀吉が築いた大阪城は「三国無双の城」と称えられるほど豪華で華麗な姿を誇っていたと伝わります。
しかし、完成後まもなく関白となり、秀吉は京都にいることがほとんどでした。
そして、秀吉が没すると関ヶ原の戦いが起き、続く大阪夏の陣で、大阪城は燃えてしまう。
秀吉の大阪城が完成してから、わずか三十数年後のことでした。
その大阪夏の陣で勝利した徳川は、大阪ではなく江戸に幕府を開きました。
そして、秀吉の大阪城を徹底的に埋め立て、そのすぐ隣に、より巨大で壮麗な城を築き上げます。
それが二代目の白い大阪城でした。
「これからは豊臣ではなく、徳川の時代なのだ」
そう天下に知らしめるために、あえて黒かった城を白色に塗り替えたのかもしれません。
つまり、秀吉時代の記憶こそ、塗り替えたのです。
しかし、その二代目大阪城も、わずか三十数年後に落雷により天守を焼失。
まるでこの城そのものが「短命の宿命」を背負っているかのようでした。
以来、長いあいだ大阪城には天守がなく、残されたのは無数の石垣だけ。
けれども、その石の量と規模こそが、大阪城の真骨頂です。
「大阪城は、天守さえなければ世界遺産だ」──そんな冗談めいた言葉すら生まれるほどに。
城内に積まれた石は、数にしておよそ百万個ともいわれます。
なかでも圧巻なのは、桜門をくぐって正面にある「蛸石」。
日本の城の中で最も大きな石といわれ、表面積は36畳、重さは108トンに達するといいます。
そして時代は流れ、昭和のはじめ。
市民の寄付を募って、三代目となる天守が建てられました。
1931年、戦前に生まれたこの城は、空襲をもくぐり抜け、いまも堂々とその姿をとどめています。
近年の発掘調査では、初代・秀吉時代の石垣も姿をあらわしました。
こうして大阪城は、豊臣から徳川、そして昭和へと、幾重にも歴史を重ねてきたのです。
走りながら目に映る大阪城は、時代の記憶を語りかけてきます。
「RUN RUN LEARN」──走りながら学び、歴史を駆ける旅。
いま、あなたの足音に、歴史の足音が重なりはじめます。
※このガイドは、取材や資料に基づいて作成していますが、ON THE TRIP の解釈も含まれています。諸説ある部分もありますが、真実は、あなた自身の体験の中で見つけてください。