── 「伊佐爾波の丘」に古を振り返る、夜のものがたり

夜の道後のまちを抜け、飛鳥乃湯泉の前まで歩いてきました。
湯けむりよりも、街灯のにじむ光が濃くなる、しずかな夜の時間です。
その光の片隅に、ひっそりと大きな石碑が立っています。
聖徳太子が「湯の岡」に建てたと伝わる碑文を刻んだもの──けれども、これは近年になって復元された碑です。
太子が残したはずの本物の石碑は、いつの頃か姿を消しました。
その行方は、いまもわかっていません。
残されているのは、「石」ではなく「言葉」。
人々が語り継いできた記憶が、時代をこえて碑文の形で伝わっています。
そして、道後の人々には石碑の物語の記憶が幾重にも重なっています。
その始まりは、はるか神話の時代にまでさかのぼります。
出雲の大国主命と少彦名命という二柱の神さまが、この地の湯で病をいやしたという「玉の石」の伝説。
湯に浸かった少彦名命が生気を取りもどし、軽やかに舞った足あとの残る石が、いまも玉の石として祀られている──。
人々は、道後の湯を「いのちをよみがえらせる場」として語り継いできました。
やがて、道後の湯は「ただの温泉」ではなく、神さまとの距離がごく近い、神の湯として受け継がれていきます。
時は飛鳥時代。
都の天皇や皇子たちも、この温泉に湯治に訪れるようになります。
そのなかのひとりが、聖徳太子でした。
西暦五九六年、太子がお供を従え、「伊予の湯」へとやってきたと、伊予風土記は語ります。
太子は湯につかり、この地の風景を見渡しました。
椿の葉がしげり、湯けむりがゆらぎ、夜になると、湯の面には月の光がゆっくりと揺れていたことでしょう。
感動した太子は、その思いを碑文に刻みます。
そこに書かれていたのは、こんな内容だったと伝えられています。
──太陽や月の光が、誰に対しても分けへだてなく降りそそぐように、この温泉も、すべての人に平等に恵みをあたえてくれる。
温泉をただの「湯治場」としてではなく、天の恵みが人々に行きわたる「理想の国」のたとえとして語った碑文。
太子の目には道後の湯が、「政治の理想」を映す鏡に映ったのかもしれません。
そしてもうひとつ、太子が碑を立てた場所にも、物語があります。
古い記録によれば、太子は湯から上がり、「湯の岡」と呼ばれた小高い丘にのぼり、そのほとりに碑を建てたと記されています。
その場所は、のちに「伊佐爾波(いさにわ)の岡」と呼ばれるようになりました。
なぜ、そんな名前がついたのでしょうか。
古い記録では、こう説明しています。
碑が建てられたといううわさを聞きつけ、人びとが「その碑文を見たい」、互いに「いざ、見に行こう」と、さそい合ってやって来た。
だから、この丘は「いざなう」から転じて「伊佐爾波」と呼ばれるようになった──と。
いさにわ。
耳で聞くと、おどろくほどやわらかく、どこか誘われるような響きです。
「さあ、おいで」と、だれかが静かに声をかけてくるような名前。
夜の道後を歩いていると、その音のやさしさが、じわじわと胸の奥に染み込んできます。
「伊佐爾波」という言葉の意味については、ほかにも説があります。
たとえば、「沙庭(さにわ)」には、「神さまを招いてお祀りし、お告げをいただくための清らかな場所」という意味があり、そこに、「神聖な」という意味の「斎(い)」が付いたのではないか、とする説。
さらに「い」という響きそのものに着目すれば、井戸の井──すなわち「神の井」「神の湯」と言われた道後の水や温泉をあらわしていると想像することもできるかもしれません。
あなたは「伊佐爾波」という言葉に、どんな意味があると思うでしょうか。
では、その伊佐爾波の丘は、いったいどこにあったのでしょうか。
実は、聖徳太子が碑を立てた丘は、「現在の道後公園のあたり」と示す資料がいくつか存在します。
たしかに、道後温泉の入り口に位置する道後公園には、いまもまちを見下ろす小高い丘があります。
とはいえ、学者たちのあいだでは、「本当に道後公園が伊佐爾波の丘だったのか」について、いまも議論が続いています。
だからこそ、道後公園にある丘を目指してみましょう。
道後温泉の歴史には、失われた聖徳太子の石碑や、どこかわからない伊佐爾波の丘など、いまも多くの謎が残されています。
けれども、夜の道後を歩いていると、その「わからなさ」さえも、ひとつのロマンとして感じられてきます。
このガイドでは、伊佐爾波という名に宿ったロマンを道しるべにしながら、道後公園という丘の歴史を、時の流れのままにたどっていきます。
次のスポットでは、その丘に城を築いた河野氏と、「湯築城」について、ご案内していきましょう。

Next Contents

Select language