海が道なら、その道を走る船は、誰がつくっていたのでしょうか。
瀬戸内海では、古くから無数の船が行き交ってきました。石を運ぶ船。塩を運ぶ船。醤油を運ぶ船。人を乗せる船。けれど、「船を造る町」として全国に知られるようになったのは、近代の相生でした。
相生湾は、奥深くまで入り込んだ穏やかな入り江です。外海からの波を受けにくく、昔から船が集まる天然の良港として利用されてきました。
明治時代、この静かな湾に船を修理するための船渠が築かれます。それが、やがて播磨造船所へと発展しました。最初に造られたのは、「神の浦丸」という小さな木造船です。そこから相生は、大型船を次々と送り出す、日本有数の造船の町へと成長していきました。
巨大な船が完成し、海へ滑り出す進水式の日。多くの人が岸壁へ集まり、その門出を見送りました。
この海を行き交う船は、昔から人や物、そして文化を運び続けてきました。近代の相生は、その船を生み出す町になったのです。
毎年五月に行われる「相生ペーロン祭」も、その歴史と無関係ではありません。もともとは長崎出身の造船所の職人たちが伝えた競漕で、戦前は造船所の祭礼として行われていました。それが戦後、市民の祭りへと受け継がれ、いまでは相生を代表する風景になっています。海を渡ってきたのは、技術だけではありません。祭りや人々の楽しみまで、この町へ運ばれてきたのです。
海は、境界ではありませんでした。人を出会わせ、技術を伝え、新しい文化を育てる道でした。