まわりを見てください。丸い石が、びっしりと積み上げられています。
角のない、まんまるの石。ひとつの石を、六つの石がぐるりと囲む「六方積み」で築き上げられた玉石垣です。ここ大里の集落には、この玉石垣の道がどこまでも続いています。八丈島の美しい風景のひとつです。
実はこの丸い石、ここから1キロほど下った横間ヶ浦にあったもの。
長い年月、波に転がされ、角を削られた丸石が、浜一面に広がっています。
その石を、島人や流人たちが、ここまで運んだと伝えられています。
江戸時代、この島には1800人を超える人々が流されてきました。関ヶ原の戦いに敗れた武将、政争に巻き込まれた学者、江戸で事件を起こした者。境遇も、罪も、暮らしぶりも、さまざまでした。
本土から遠く離れ、頼る者もなく、食べるものに困る流人も少なくありませんでした。そんな流人たちは、浜から玉石をひとつ運ぶと、おにぎりをひとつ受け取ったとも伝えられています。
おにぎりひとつのために、重い石を抱え、坂道を登る。一個、また一個。その石が積み上げられ、この石垣になったといいます。
そのひとつひとつを、誰かが海岸から運んできた。その途方もない時間が、目の前に残されています。
八丈島へ流された人々のなかで、もっとも名高いのが、宇喜多秀家です。
豊臣秀吉に重用され、五大老にまでのぼりつめた武将でした。しかし、関ヶ原の戦いで西軍として敗れ、江戸幕府によって八丈島へ送られた最初の流人となりました。34歳でした。
大名として多くの家臣を従えていた男が、海を隔てた島で、新しい暮らしを始めたのです。
妻の豪姫は同行を望みましたが、許されませんでした。それでも、豪姫の実家である加賀前田家は、秀家たちへの援助を続けました。
1年おきに、白米70俵と生活のためのお金、衣類や薬などを島へ送る。この仕送りは秀家が亡くなったあとも続き、宇喜多一族が赦免される明治2年まで、260年あまりにわたったといいます。
秀家は、この島でおよそ50年を生き、84歳で亡くなりました。それだけ長く生きられたということは、八丈島での暮らしは、私たちが「流人」と聞いて思い浮かべるよりも、満ち足りたものだったのかもしれません。
島では、こんな唄が歌い継がれています。
「沖で見たときゃ 鬼島と見たが 来てみりゃ八丈は 情け島」
沖から見れば、鬼の住む島に見えた。でも来てみれば、情けの島だった。
流人のなかには、やがて島の暮らしに溶け込み、読み書きや工芸など、本土で身につけた知識を、この島へ伝えた人々もいました。
石垣に、手を触れてみてください。
波に磨かれた石の丸みが、手のひらに伝わってきます。
記録に残っているのは、宇喜多秀家のような、名のある流人の暮らしだけです。この石を実際に運び、積み上げた人々が、どんな一日を過ごし、何を思いながらこの坂を登っていたのか──それを語る言葉は、ほとんど残されていません。
残っているのは、この玉石垣だけです。