目の前に見える頭ヶ島の集落。その向こうには、もうひとつの島があります。まるで、この集落を外の世界から隠すように。誰も来ない島。誰にも見つからない島。そんな島だからこそ、希望を見出した人がいました。潜伏キリシタンです。この静かな景色には、どんな物語が隠されているのでしょうか。少しだけ時間をさかのぼってみましょう。
日本にキリスト教が伝わったのは、1549年。フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸したことに始まります。戦国時代のただ中で、その教えは急速に広がっていきました。五島にも、キリスト教は早くから伝わりました。きっかけは、ひとりの父親が抱いた、わが子への願いだったといいます。当時の五島の領主は、病に苦しむ息子を救うため、西洋医学に通じた宣教師を招きました。治療をきっかけに伝えられたキリスト教は、領主の家族や家臣、そして島の人々へと広がっていきます。しかし、その時間は長くは続きませんでした。
豊臣秀吉による宣教師の追放。そして、徳川幕府による禁教。幕府は、西洋諸国の進出を警戒し、キリスト教を危険な教えと考えました。教会は壊され、信徒たちは改宗を迫られます。キリストやマリアが刻まれた板を踏ませる、踏み絵。ためらえば、キリスト教徒と疑われる。待っていたのは、拷問と処刑でした。信仰を明かすことは、自分だけではなく、家族や村の人々まで危険にさらすことを意味したのです。
それでも、祈ることをやめなかった人々がいました。表向きは仏教徒として寺の檀家になり、神社の氏子となる。求められれば、踏み絵も踏む。けれど家の中では、観音像をマリアに見立て、声を潜めて祈りました。宣教師は、もういません。聖書を自由に読むこともできません。それでも、人々はオラショと呼ばれる祈りの言葉を、親から子へ、子から孫へと口伝えで手渡していきました。そうして、長い年月にわたって信仰を守った人々を、潜伏キリシタンと呼びます。
そして1797年、五島の歴史に大きな転機が訪れます。人口の減少に悩んでいた五島藩が、大村藩に農民の移住を求めたのです。五島藩は、荒れた土地を耕す開拓民を求めていました。一方、大村藩には、厳しい取り締まりの中で暮らす潜伏キリシタンたちがいました。彼らが五島を選んだのは、信仰のためだけではありませんでした。大村藩の海沿いの村々は、わずかな土地に多くの人が暮らす、貧しい地域でした。そのため、長男以外は命を絶たれることもあったと伝えられています。キリスト教の教えを信じる人々にとって、それは耐えがたい現実でした。子どもの命を守るために、海を渡った人々もいたのです。
こうして、多くの潜伏キリシタンが、開拓民として五島へ渡ります。ただし、彼らを待っていたのは、豊かな土地ではありませんでした。急な斜面。石だらけの荒れ地。船でなければたどり着けない入り江。すでに暮らしやすい土地には人が住んでいました。新しく来た人々に与えられたのは、誰も手をつけなかった場所ばかりだったのです。
頭ヶ島も、そのひとつでした。かつては天然痘などの病人が療養する島として使われ、その後、長く無人となっていた島です。人々が近づかなかったこの島は、潜伏キリシタンにとって身を隠すことのできる場所でした。
1858年、この島に、前田儀太夫という仏教徒の男性が移り住み、開拓を始めたと伝えられています。しかし、ひとりで土地を切り開くことには限界がありました。儀太夫が集めたのは、周辺に暮らす潜伏キリシタンたちでした。彼らは、仏教徒である儀太夫のもとで働く開拓民という姿を取りながら、この島へ移り住んでいきました。島に役人の目は届きにくい。儀太夫もまた、彼らの信仰を知りながら、見て見ぬふりをしていたといわれています。頭ヶ島では、ようやく安心して祈ることができたのです。潜伏キリシタンたちにとって、この島は、まるで「キリシタンの天国」とも思える場所になっていきました。
あなたが今見渡している景色の先に、人々が暮らし、祈った集落があります。すぐそばには、かつて人々が歩いた里道が、今も残っています。集落へは、その道をたどって歩いて行くこともできます。当時、この道を歩いた人々の歩みに、思いを重ねながら。
〈この旅の年表〉
1549年 フランシスコ・ザビエル来日
1587年 豊臣秀吉、宣教師追放
1614年 江戸幕府、禁教令
1629年 踏み絵が始まる
1797年 長崎本土から五島へ移住開始
1858年 頭ヶ島で開拓が始まる
1865年 大浦天主堂で信徒発見
1867年 桐で14名が信仰を表明
1868年 明治維新・五島崩れ始まる
1870年 鷹ノ巣六人斬り事件
1873年 禁教令廃止・信仰の自由へ
1910年 鉄川与助、青砂ヶ浦天主堂を建設