「キリシタンの天国」と呼ばれた頭ヶ島。けれど、その天国は、長くは続きませんでした。ある日、島に残されていたロザリオが見つかり、住民たちの信仰が役人に知られてしまいます。取り調べを受けた人々は、こう問われました。「お前たちは、本当にキリシタンなのか?」長いあいだ、ひた隠しにしてきた信仰です。これまでなら黙ってやり過ごしていたはずでした。けれど、この時は違いました。人々は、自らキリシタンであることを認めたのです。
なぜだったのでしょうか。その理由は、この数年前に起きた、ある出来事にあります。
幕末、開港した長崎には外国人居留地がつくられました。その外国人のために建てられた教会が大浦天主堂です。そこで、「信徒発見」と呼ばれる出来事が起こります。潜伏キリシタンの女性が、宣教師プティジャン神父に近づき、こう打ち明けたのです。「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ。」250年近く姿を隠してきたキリシタンが、自ら信仰を名乗り出た瞬間でした。この知らせは、海を越えて五島にも届きます。
そのとき、居ても立ってもいられなくなった人がいました。ドミンゴ森松次郎です。松次郎は密かに長崎へ渡り、大浦天主堂を訪ねます。そしてプティジャン神父に願いました。「どうか五島にも神父を遣わしてください。」その願いは、まもなく実現します。ひとりの神父が五島を訪れ、松次郎のもとで、禁教以来初めてとなるミサが行われたのです。潜伏の中で受け継がれてきた祈りが、再び光の中へ姿を現した瞬間でした。
その後、松次郎は頭ヶ島に移り住み、自らの屋敷を、祈りと学びの場にしました。五島各地から若者たちが集まり、この場所で教えを学び、それぞれの集落へ持ち帰っていったのです。頭ヶ島は、五島中の信仰を支える拠点になっていきました。しかし、その喜びは長くは続きません。
信徒発見は、人々に大きな勇気を与えました。各地で、長いあいだ隠してきた信仰を、自ら名乗り出る人々が現れ始めたのです。しかし、その勇気は、新たな迫害も招きました。五島でも「五島崩れ」と呼ばれる弾圧が始まります。そのさなか、頭ヶ島では、冒頭でお話した、あのロザリオが見つかりました。多くの人が捕らえられ、厳しい拷問を受けました。しかし、松次郎だけは、信徒たちによって逃がされました。指導者である彼まで失えば、人々の信仰そのものが絶えてしまうと考えたからです。
一方、松次郎の屋敷は、人々を閉じ込める監禁の場所として使われました。祈りを学んだ場所が、信仰を捨てさせる場所へ変わる。やがて人々は島を追われ、頭ヶ島は、再び、誰もいない島になりました。それでも、物語はそこで終わりません。
やがて、キリシタンへの迫害は外国にも伝わっていきます。信仰の自由を求める声が国内外で高まる中、1873年、ついに政府はキリスト教の禁教を撤廃しました。ようやく、人々は堂々と祈ることができるようになったのです。頭ヶ島へ戻ってきた人々は、まず松次郎の屋敷跡に小さな木造教会を建てました。そして、より本格的な教会を築くことを決意します。それが、今あなたの前に建つ頭ヶ島天主堂です。
立派な教会です。けれど、この集落は決して豊かではありませんでした。高価なレンガを買う余裕はなく、人々が選んだのは、この島で採れる砂岩でした。近くの海岸や向かいの島から切り出した岩を、自分たちの手で運び、ひとつひとつ積み上げていったのです。ひとつ三百キロほどもある岩を、一日に運べるのはひとつかふたつ。工事は、働いて資金を貯めては進め、尽きればまた止まる。その繰り返しでした。教会づくりに出れば、畑を耕すことも、漁に出ることもできません。人々は食べ物を分け合いながら工事を続けました。
当初は四十軒ほどあった信徒の家々も、その負担に耐えきれず離れる人が現れ、最後には半数ほどになったとも伝えられています。建設費を工面するため、集落の山を売ったという話も残っています。そうして、十年という歳月をかけ、この教会は完成しました。なぜ、そこまでして、この教会を建てようとしたのでしょうか。
もし中をご覧いただけるなら、天井を見上げてみてください。重厚な石造りの外観とは対照的に、天井いっぱいに花が咲いています。人々は、この空間を「花の御堂」と呼んできました。迫害を生き延びた人々が、ようやく咲かせた花です。そこに込められた願いに、少しだけ思いを巡らせてみてください。
こうした歴史を伝える場所として、頭ヶ島天主堂は世界遺産の構成資産のひとつにもなっています。