〜その願いを形にしたのは誰なのか〜

赤レンガの壁。空へ伸びる高い塔。左右対称に整えられた姿。隠れるように祈っていた人々が、なぜこれほど堂々とした教会を建てたのでしょうか。その願いを形にした人がいました。鉄川与助。実は、先ほど訪れた頭ヶ島天主堂も、彼の設計によるものです。

鉄川与助は、この上五島で生まれました。代々続く大工の家に育ち、幼い頃から、寺や神社を建てる日本の木造建築を学びます。ところが、二十代の頃、一つの出会いが人生を変えました。フランス人の宣教師たちです。日本にはまだほとんど例のなかった、西洋の教会建築との出会いでした。与助は、宣教師から西洋建築を学びながら、自分が受け継いできた宮大工の技術で、その形を実現しようと挑みます。

実は、鉄川与助自身はキリスト教徒ではありませんでした。生涯、仏教徒だったと伝えられています。それでも、人々の願いに応え続けました。寺を建てる。教会を建てる。信じる宗教は違っても、人々が心を寄せる場所をつくる。それが大工の仕事だと考えていたのかもしれません。教会を建てるときには、自ら山へ入り木を選び、レンガ工場へ足を運び、材料を自分の目で確かめました。時には信徒たちと一緒に材木を運び、現場で汗を流したとも伝えられています。やがて人々は、「教会は鉄川でなければ建てられない。」そう語るようになります。彼は生涯で、五十を超える教会建築に関わりました。

その鉄川与助が、独立して間もない頃に挑んだレンガ造りの代表作。それが、この青砂ヶ浦天主堂です。この地域にも、頭ヶ島と同じように、潜伏キリシタンたちが暮らしていました。ドミンゴ森松次郎の教えは、この地にも伝えられ、五島崩れでは信徒たちも厳しい迫害にさらされます。しかし、信仰は途絶えませんでした。長い潜伏の時代を生き抜き、ようやく堂々と祈れる日が訪れます。人々は、その喜びを形にするように、新しい教会を建てることを決意したのです。

教会は、多くの人の手によって築かれました。レンガは佐世保から、石は頭ヶ島から運ばれました。そして、人々は港からこの坂の上まで担ぎ上げました。一軒ごとに建設費を負担し、子どもたちまでレンガ運びを手伝ったと伝えられています。設計する人。造る人。運ぶ人。祈る人。その誰一人欠けても、この教会は完成しませんでした。

時間があれば、鉄川与助が最初に手がけた冷水教会や、青砂ヶ浦天主堂のあとに手がけた大曽教会にも足を運んでみてください。同じ建築家が造った教会でも、ひとつとして同じ姿はありません。

迫害の時代、信仰は隠すものでした。けれど、この教会が建ってから、信仰は毎日の暮らしの中に息づくものになりました。鉄川与助が形にしたのは、教会だけではありません。人々が、もう隠れることなく祈れる日常。その風景そのものだったのかもしれません。

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