〜なぜ、教会は墓の前に建てられたのか〜

この教会へ来る途中、小さな墓地や、孤児院の前を通ってきたと思います。実は、禁教が解かれ、この地に派遣されたブレル神父は、教会を建てるより先に孤児院をつくりました。というのも、当時の五島では、貧しさのために捨てられる子どもが少なくありませんでした。何よりもまず、子どもたちを救わねばならない。神父はそう考えたのです。

けれど、この場所には、それより前に、深い傷跡が残されていました。「鷹ノ巣六人斬り」。禁教が解かれる、わずか三年前のことです。五島崩れの迫害を逃れ、島の外へ身を寄せていた家族がいました。「もう帰っても大丈夫だろう。」そう信じて故郷へ戻り、空き家を直し、新しい暮らしを始めます。身重の妹一家も呼び寄せました。「ようやく、家族みんなで暮らせる。」そんな希望が見え始めた、そのわずか三日後の夜でした。突然、有川郷士を名乗る四人の侍が家へ押し入ります。

「キリシタン征伐に来た。」そう叫び、「新しい刀の切れ味を試しに来た。」とも言ったと伝えられています。その夜、六人の命が奪われました。身重だった女性は、お腹の子どもとともに命を落とします。

生き残ったのは、幼い三人の子どもだけでした。一人は、とっさに床下の芋がまへ身を滑り込ませ、畳の隙間から家族が斬られていく様子を見ていました。もう一人は、亡くなった母親の足元で息を潜めます。そして六歳の長吉は、泣きながらこう叫んだと伝えられています。「私も殺すんですか。殺さないでください。」すると侍は、「お前は殺さぬ。」と言い残し、立ち去りました。事件を広めさせるためだった、と伝えられています。

事件のあと、生き残った子どもたちは面通しに立ち会いました。伝承では、長吉は並んだ侍たちを指さし、「この人がお母さんを殺した。」「この人がおばさんを殺した。」そう言い当てました。役人が、犯人の着物を着て長吉を試したときにも、「着物は同じだけれど、顔は違う。」と答えたといいます。やがて犯人は捕らえられ、切腹を命じられました。その際、役人は親族に「敵討ちを望むか」と尋ねました。けれど親族は、「カトリックに、そのような教えはありません。」と断ったと伝えられています。

そして、亡くなった六人が眠る墓の前に建てられたのが、この教会でした。けれど、この教会を築いたブレル神父もまた、帰らぬ人となります。子どもたちや教会を支えるため、支援を募りに島を出た帰り道。寄付金を携えたまま、嵐の海で遭難します。そして、一度は漁船に救助されたものの、その寄付金を狙われ、命を奪われたという伝承も残されています。

この場所には、多くの人の祈りと、多くの人の犠牲が積み重なっています。私たちが今、当たり前のように持つ「信仰の自由」は、こうした人々の犠牲の上に築かれたものでもあるのです。

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