──本尊は「十一面観音菩薩立像」。秘仏であるが御簾ごしに透けて見える姿を拝むことができる。現在では「がん封じのご本尊」として、たくさんの人たちが参拝にやってくる。ほかにも、地面を這う蟹の上に仏様が立っている像がある。胸の前に持っているのは薬の壷。これは何を意味しているのか。「蟹」と「がん」は英語にすると同じ「キャンサー」である。癌細胞の上に薬師如来が立って病気を封じるというメッセージがこめられているのだ。

大安寺を建てた 道慈はいかなる人物か

大安寺を建てたのは「道慈」というお坊さん。遣唐使として16年間の留学の末に日本に帰ってきた。それも、中国の皇帝に気に入られ、さまざまな賞をもらったほどのエリート中のエリート。帰国後しばらくは平城京の中枢で指導する立場にあった。しかし、道慈にはある想いがあった。日本の寺は中国の寺に比べて遅れている。大きな建物を建てるのもいいが、それよりもまず人材を育成することが大切だという理念である。それならば、と言って任されたのが大安寺であった。

道慈は「僧房」を最優先にする境内のかたちをつくりあげた。たとえば、寺の中心である金堂の前には広大な広場があり、そこで様々な研修や発表が行われた。そして、それらをすべて取り囲むようにして巨大な僧房が建てられた。これはほかの寺では見られない大安寺の特徴であり、道慈のいちばんの願いであった。

道慈はどんな人物だったのか。こんなエピソードがある。当時の総理大臣が主催する宴会に招かれたとき、道慈はそれを断った。お坊さんの本分は宴の席にはべるようなことじゃない。そんな時間があるなら自らの心を磨くべし、と。そう書き残して山に引きこもったのだ。この時代において、なかなか許されることではない。結果、政府との立ちまわりがうまい若手にポストを奪われ、最終的に道慈は追いやられてしまう。空気が読めない頑固者だが、お坊さんとしての美学を貫く。そんな不器用で真っ直ぐな人だったのかもしれない。

道慈の教えは大安寺で学ぶ後輩たちに引き継がれた。たとえば、勤操。京都の東寺と西寺、その両方の現場監督を務めたほどの人物である。そんな勤操の弟子にあたるのが、あの空海である──最澄もまた大安寺にいた行表というお坊さんの弟子である──空海は道慈のことを「わが大師」と呼び、「大安寺をもって後世の弟子は本寺となすべし」と言い残した。この言葉がのちの大安寺を守ることになる。

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