北川フラム
大地の芸術祭 総合ディレクター

1946年新潟県生まれ。東京芸術大学卒業。
「アントニオ・ガウディ展」(1978­‐1979)、「子どものための版画展」(1980­‐1982)、「アパルトヘイト否!国際美術展」(1988-­1990)などの展覧会プロデュースを経て、「ファーレ立川アート計画」で地域づくりを実践。

そして、2000年。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」を立ち上げる。日本には前例がなかった芸術祭のありかたを示し、2010年にスタートした「瀬戸内国際芸術祭」の総合ディレクターも務める。

現在では、日本全国に広がっている芸術祭。そのはじまりの人である。

大地の芸術祭を知ることは、越後妻有という土地を知ること。

アーティストが越後妻有という土地に来て何を感じたか。それを美術であらわしているのが大地の芸術祭です。だからあなたにも、まずはこの土地について話したい。

越後妻有という土地は、縄文時代に人々が現在の信濃川に沿ってやってきて、シャケを捕ったり、ドングリを拾ったり、クマを狩ったり、原始的な狩猟採集をはじめた場所です。

1500年前になると稲作をする人が現れます。ただ、平らな土地があるわけでもなければ、日照時間が多いわけでもありません。それも、大陸からの季節風が日本海の水蒸気を吸いあげて、そこからも見えるであろう越後山脈にぶつかります。夏は大雨に、冬は豪雪にもなるわけで、洪水や土砂崩れがとても多い。そういう過酷な場所で稲作をやってきたのです。

だから工夫が必要でした。たとえば、土砂崩れの跡地を「棚田」に変えたり、「瀬替え」といって蛇行している川を水田に変えたり。「マブ」という山から水を引くためのトンネルも、この地域には圧倒的に多くあります。とにかく人々は必死の思いで田んぼを耕してきた。それは現在まで続いています。

すべてを受け入れざるを得ない、越の国のどんづまり。

越後の「越」という字には、「遠く彼方」という意味があります。しかも、越の国の後ろの国のそのまた「どんづまり」が越後妻有(えちごつまり)。厳しい山に囲まれて逃げ場もありません。越後は日蓮や親鸞が追放されて来た場所でもあるのですが、地域の人たちにとっては、来る人みんな受け入れるしかない場所なのです。

自然に対しても同じ。すべてを受けいれるしかありません。棚田や瀬替えがその証。そうした努力によって、農業をするには全然いい場所じゃないのに、日本で最高の米どころになった。これは越後妻有の最大の美徳だと思います。つまり、越後妻有は人間が自然とどのように関わって生きてきたのか、その足跡が今も残っている場所と言えるんですね。

次は、都市と越後妻有との関わりについて話をしましょう。


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