キナーレが チュートリアルなら、 農舞台は 本編のはじまりの地。

キナーレから農舞台までの旅の途中で、どのような景色の変化を感じただろうか。里山の暮らしがぐっと色濃くなるこの場所から、あなたの旅もまた、ぐっと濃く深くなっていく。

農舞台にある作品と、川の向こうに見える「城山」にある作品をあわせると、ここにはなんと約50点のアートが密集している。「まつだい駅」と直結しているのでレンタカーも必要ない。歩いて2時間ほどで見てまわれるはずだ。そうして限られた時間でも、大地の芸術祭や越後妻有という土地を感じられるのが農舞台である。

もちろん農舞台という建物自体もアーティストによる作品。実はこの建物には柱がない。白い建物は、屋上のブリッジと建物を支える4本の足によって宙に浮いているのだ。

1階に広がる空間は、夏は日よけ、冬は雪よけになるのに加え、イベントホールとしても使われている。

2階は、ひとつひとつの部屋がアーティストによる作品空間。トイレにまでユニークな仕掛けがある。

大地の芸術祭を代表する作品、イリヤ&エミリア・カバコフの「棚田」を眺める展望台もある。農舞台が建つ前から、この場所には棚田を見るためのお立ち台があった。その機能を建物に取りこんだのだ。

ほかにも、高圧の送電線があること、冬にはラッセル車の雪が舞うことなど、農舞台を建てるにあたっては複雑な条件が山積みだった。それらをすべてまとめあげたことが建築家の手腕だろう。

そして、アートはあなたに問いかける。

きっかけは 市町村の合併施策。 越後妻有にアートが持ちこまれた経緯とは?

大地の芸術祭の第1回が開催されたのは2000年。その発端となったのが「平成の大合併」。新潟県でも、6市町村(十日町市、川西町、津南町、中里村、松代町、松之山町)の合併に向けて動き出していた。

「アートでまちづくりをできないか」そう、新潟県のほうから声をかけてきた。それがはじまりだったと、のちに大地の芸術祭の総合ディレクターとなる北川フラム氏は言う。

そして、氏がこの地で知ったことは、越後妻有の住民たちは物事を集落単位で考え、自分の命と同じくらい集落の存続を願っているということ。だからこそ、ひとつひとつの集落に根ざした取り組みにしようと考えたという。

折しも当時は「ハコモノ行政」と呼ばれ、建物は立派だが、住民の使い勝手を長期的な目線で考えられていない物も多かった。拠点となるステージは必要だが、同じようなハコモノを建てるわけにはいかない。そこで、駅を起点にして6市町村がそれぞれテーマをもつことにした。

松代は雪国農耕文化村、十日町は越後妻有の市、川西は新しい田園都市、津南は縄文とあそび、中里は信濃川物語、松之山は森の学校。このテーマに沿って、それぞれの地区がステージを建てる。

また、ステージに先駆けて、写真と言葉で地域の魅力を再発見する「越後妻有8万人のステキ発見」や、道路や庭先に花を植えて地域同士をつなげる「花の道」というプロジェクトを展開。これらの成果を3年ごとに発表する場としてステージがあり、アートで表現する。それを「大地の芸術祭」とした。

しかし、「アートでまちづくりを」と言ったところで、住民に受け入れてもらうことは難しかった。前例がない。わけのわからない現代アートにお金をかける価値はない。さまざまな反対意見を浴びながら、2000回を超える説明会を敢行。予算が決まらぬまま、北川フラム氏は自腹でやる覚悟で準備を進めていた。

そしてむかえた第1回。はじめは人が来なかった。しかし、会期も半分を過ぎたころから、人が増えはじめ、最後の1週間は畦道に行列ができていた。それにはテレビや新聞の影響もあるが、ほとんどが口コミによるものだったという。それは、こういう話だ。

「とにかく暑い。何でこんなに歩かなくちゃいけないのか。ていうか作品が見つからない。 でも、なぜか気分がいいんだよ」

こうしてはじまった大地の芸術祭は、年を追うごとに盛りあがり、2015年で第6回をむかえた。ところで、城山のアート作品群には、第1回当時の作品も多く残されている。城山をめぐり歩いていると、先ほどの口コミには完全に同意したくなるはずだ。

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