ふじさんミュージアムは、この旅のおさらいができる博物館だ。ぼくたちは旅の終わりに、ふじさんミュージアムの学芸員でもある篠原武さんにお話を聞かせてもらった。
──ふじさんミュージアムとは?
前は「富士吉田市歴史民俗博物館」だったのですが、富士山が世界遺産に登録されたことを機に富士山信仰にまつわる展示をする施設としてリニューアルされました。世界遺産として登録された25の構成資産の中でも「富士吉田」を中心としていて実物資料も豊富です。富士吉田は「麓から登山」をされる方の拠点となってきた町なので、御師の家や北口本宮冨士浅間神社、吉田口登山道、富士講についてより深く知ることができるミュージアムになっています。
──篠原さんは富士吉田の生まれなんですか?
僕は茅ヶ崎のほうでして、小さいころから学校の朝礼で校長先生が「きょうは富士山が見えますね、きっと良いことがありますね」と話していたり、僕にとって富士山は「眺める山」だったんです。富士吉田で学芸員をするようになって「登る山」だと実感しました。1000年近く信仰されてきて、そのための登山道がちゃんと残っている。富士山といえば、五合目から登るイメージしかなかったんで驚きました。吉田口登山道を歩くみなさんにも、僕と同じ驚きを感じてほしいです。
──最近、富士山のどんなお話に驚きましたか?
埼玉県の志木市に富士塚があるのですが、吉田口登山道を元にした富士塚なので、一合目、二合目、三合目という合目をあらわす石や、そこでまつられている神さまの名前が書かれた石碑が富士塚の中に立っているんです。その富士塚を修復しようということで、行き来が生まれて。その富士講は解散したため、保存会という組織が富士塚を守っているんですけど、それでもそうやって地域の方に大事にされているのが嬉しかった。で、その富士塚はミニチュアの吉田口登山道がコピーされているわけですが、富士吉田に吉田口登山道が残っているから検証できるんです。麓からの登山道が残っているのは吉田口だけですので、あらためてその貴重さを見直しました。
──現在でも富士講は続いている?
富士吉田に来る富士講は今も60ぐらいあるといわれています。毎年、御師の家に泊まって白い行衣を着て富士山に登る方もいらっしゃいますよ。富士講が続いているところは地域の力が大きいんです。富士講という組織が地元の神社のお祭りをする組織にもなっていて、富士講だけで終わらないつながりになっている。逆に、都市化が進んで人の出入りが進んだ地域では解散になる。そもそも交通が便利になって五合目まで車で簡単に行けるようになりましたよね。「登るための富士講」となるとなかなか続かないんですよ。「積み立てをしていこう」というのが富士講なので。
──積み立て、ですか?
昔は江戸から歩いて来たわけで、すごくお金がかかったんです。だから、積み立てをする。村の人がみんなで富士講に入るので、富士講というものが地域のコミュニティにもなっていました。でも、今のように車で日帰りで行けるようになったり、ひとりで登れるくらい費用がかからなくなると、富士講を必要としなくなる。だから今は富士講の文化を守っていこうとか、浅間神社を守っていこうとか、別の形で富士講は続いています。
──お金を預けるから簡単に離れられないということ?
それもありますね。富士講には銀行のような役割もあって、利子付きでお金を借りることもできました。主な目的は、100人のメンバーがいれば、毎年10人ずつ富士山に登って、10年かけて全員が登れるようにしましょうというもの。そのための「貯金会」のような組織ですね。毎月集まって富士山の神さまや富士講の掛軸を床の間にかけてお祈りをするのですが、それが終わると「直会」といってお酒を飲み交わしながら、今度いつ富士山に登ろうかと話し合ったり。親睦会でもあったわけですね。戦前はもちろん、戦後も復員した方が「富士講をもう一度」というような勢いもあったんですが、富士スバルラインができたこともあり世代交代が進まなくなりました。お抱えの富士講が解散したから御師の家をやめようとか、いきつけの御師の家がなくなったからうちの富士講もやめようとか。そうして役目を終えていったんです。
──富士講は富士山に登る団体というだけではないんですね。
御神体は富士山の神様ですが、それを地域にある神社や富士塚にも祀り、夏の山開きにあわせてお祭りをするというコミュニティになっていたのが富士講なんです。富士講のリーダーを「先達」といいますが、自分のためというより、地域のため、人のため、という姿勢の方が多い。多くの先達さんは「信仰も大事だけど、まずは仕事をきちんとやること。その中で富士山を信仰したり登ったりする。富士講とはそういうもの。先達とはそういうもの」と、よくおっしゃっています。先達になるときには厳しい修行もされてきた方なんですが、それをひけらかしたりはしない。みなさん面倒見がいい方ばかりです。
──富士講は関東が中心ですが、たとえ九州の人であっても富士山に思い入れがあるのはなぜでしょう?
富士山は大きいだけでなく、歴史的なつながりがあったということが大きいですよね。東京だったら身近なところに富士塚や浅間神社がある。それを築いた祖先が富士山とつながっていたことがわかります。九州であっても、江戸時代は参勤交代がありましたよね。武士階級の人たちはその機会に富士山に登った人も多くて。また、浮世絵などによって富士山の存在感をみんなが知っていた。和歌でも富士山が出てくるので、寺子屋の教科書で習ったりもしてるわけです。それがいつか登りたいという想いにつながったり、富士塚を築いたり、地元の山に「なになに富士」と名付けたりするところにつながったりしています。
──「麓から登山」をガイドされるときはどのようなお話をされますか?
各合目に山小屋の跡がありますよね。そこはかつて家族経営で、夏の2ヶ月間は山小屋に住みながら登山道を支えてきた人がいました。過酷な条件の中で雨水を苦労して集めたり。「絞り水」と呼ばれる湧き水が溶岩の隙間から出てくるのですが、富士山には川がないのでそういう水を使うしかない。馬返しから五合目までが拠点になったのはそこに水があったからでもあるんです。五合目から上は木が少なかったので絞り水もあまりとれない。だから万年雪を屋根の上においてそれを溶かして水を得たり。とにかく大変だった。あとは穴があいた道を砂で埋めたり。登山道を維持管理するのは大変なこと。そのおかげで今も登れるわけです。今も経営している五合目から八合目の山小屋も含めて、その多くは約300年前から続く老舗ばかりです。富士登山の歴史において山小屋の存在は欠かせないものなんです。
──取材時も倒木が道を塞いでいて、すぐに荒れちゃうんだなと実感しました。
登山道を途切れずに守り継いできたことがすごいのだと思います。だから世界遺産になった今、注目されてるんですね。残っているのは吉田口だけですから。御師の文化や富士講の文化もそう。ほかはどこもなくなってしまったので、残っているのはここだけなんです。そこに感動してしまいますね。富士スバルラインができてからも郷土史家の方々が登山道を守る会をつくったり、写真家が登山道の魅力を写真集で伝えようとしたり、そうやってつないできたもの。登る人がいてこそなので、ひとりひとりの登山者が守ってきたものでもあります。
──最近は登山道を走っている人も多いですよね。
富士登山競走も70回以上続いていますからね。当時の修行者と話があうと思うんですよね。「抖擻(とそう)修行」といって、山中をめぐり歩くことで山と一体化するような修行も実際にありました。登山競走はスポーツですが無心になってやるところは同じ。感じることにつながる部分があるかもしれません。僕も何度も登っていますが、800年の歴史がある道なので、登るたびに発見がありますよ。なんとなく石碑を見ても、「この前いらした富士講の方の先祖の石碑だな」と気づいたり。先祖が石碑を奉納したという話を聞いた方が登りにきて、発見して感動している方もいました。ほかの登山道と比べてみるのもおもしろいですよ。植生もまるで違いますから。御殿場口はほんとうに何もない。江戸時代に大噴火があったせいでぜんぶ埋もれてしまったんですね。村山口は誰も登らないから鬱蒼とした原生林になっていて苔むしています。ぜひ色んなルートで富士山を歩いてみてほしいですね。