富士講の「先達」とは、信仰の道を極めた富士登山のリーダーだ。「一生に一度でも富士山に登れたら幸運」とされていた時代において、やっとの思いでお金を貯めたメンバーを無事に山頂まで連れていく重要な役割をもっていた。
先達という言葉は、今やいろいろな場面で使われている。旅の先達、メジャーの先達、遺伝子学の先達など、後に続く道を切り拓いているような人たちを「なになにの先達」と呼ぶ。その言葉のもとは富士講などの山岳信仰にあったのだ。
現在も、富士講の先達は存在するのだろうか? 取材を進めるうちに「齊藤先達」という「この人こそが世界遺産だ」というべきレジェンドがいるという話を伺った。しかし、斎藤先達は既に88歳であり普段は横須賀に住んでいるという。
会えることなら会って話を聞いてみたい。
そう願っていると、2018年の6月30日。いよいよ富士山の夏の山開きという「開山前夜祭」の日に富士吉田にいらっしゃるという情報を教えてもらった。そして、齊藤先達が常宿にしている現役の御師の家「筒屋(づづや)」さんにお邪魔してインタビューをさせていただけることになった。
※冒頭の音声はその一場面。全容は続きをお読みください。
──先達さん、もうすぐ開山前夜祭がはじまるという中、本当にありがとうございます。
いいですよ、どうぞどうぞ。
──先達はきょうで富士山は何回目になりますか?
富士山の頂上まで登ったのは45回。頂上までじゃなけりゃ、100やそこらじゃすまないな。年に5回、6回と登ることもあるから。
──これからはじまる開山前夜祭では、どういったことをされるのですか?
きょうは金鳥居公園から(北口本宮冨士)浅間神社まで行列して、神社の鳥居から「かけ念仏」をしながら歩くんだよ。
──のちほど、ぼくもお伺いして先達の写真を撮らせてもらいたいと思っています。
どうぞどうぞ。富士講はね、「誠意をもって、みんなのためになることをしなさい」という教えなんだよ。だから、「どうぞ」って私は言ってんだよ。そうじゃなきゃだめだよ、人間は。頼まれごとに「金をもらう」と言ってはいかん。富士講というのは金を請求してはいけませんよ、と決められてるんだから。それに恥じるようなことをしてはいけないんだ。
──それは食行身禄の教えですか?
そうそう。「とにかく人のためになることをしなさい」と。食行ももとは商人だったけど最終的には油売りをしながら布教したということなんだから。
──食行身禄は「信仰するばかりでなく勤勉に働きましょう」と言っていたそうですが、先達はどんなお仕事をされてきたんですか。
私は公務員を39年してきました。といってもね、私なんかは、いちばん下等な仕事をやってきたんだよ。労務職には甲と乙のランクがあってね。乙だった。下等だったんだよ。それを30年続けてきた。あと労働組合の活動も同じところで30年。久里浜病院という小さな病院でね。
──お医者さん、ということですか?
医者じゃない。「ごみ取り」だよ、私は。(※労務職とは総務のようなもので清掃を含めた事務全般をあつかう仕事)ごみ取りを30年やって、あとの9年はアルコール患者の更生施設で作業療法士をやってきた。労働組合も最後の9年は神奈川地区の長をやったんだ。ペーペーを一生懸命やってきた結果、みんなが頼む頼むというから長なんかもやってきたんだよ。
──富士講をはじめたのはどういうきっかけだったのですか?
19歳のときに、足を怪我したの。「開放性骨折」っていってね、労災だった。当時は造船業が盛んでね、大きな木を切るような作業をしてた。で、高いところからワイヤーに捕まって降りなきゃいけなくて。でも、ずっとワイヤーを掴んでると手の皮がむけちゃうでしょ? パッと手を離して飛び降りると地面に穴が開いていて。そこに着地しちゃったもんだから、ピッてさけちゃったのよ(※開放性骨折といえば骨が皮を破って突き出るほどの大怪我だ)。とにかく手術をして久里浜病院に昭和25年の2月2日から12月4日まで入院したんだ。
そのときだよ。前の先達とは、うちの親父の仲人をするぐらいの付き合いがあったんだけど、「義次(※先達の本名は齊藤義次)の命は俺が助けるから、俺のあとを継ぐように、よーく言っておいてくれ」と親父は言われてたみたいなんだ。それで、親父は私に言うわけだよ。「義次、富士講の爺があとを継いでくれと言ってるから、お前は間違いなくやるんだよ。そうすれば足も良くなって、また働けるようになるから」と。
それが富士講に入るいちばん元の出来事。実は、退院した12月4日は私の誕生日なんだけど、生まれ変わるために誕生日に退院したの。生まれ変わったつもりでやるぞ、とね。
──それから、どうやって先達になったのですか?
富士講の先達というのは、「御中道」を3回やらなきゃいけないということになってるんだ。御中道というのは、富士山の5合目を一周することね。途中で、危険な谷になっている難所があるんだけど、そこを3回渡れば「先達」と言えるようになる。そこを「渡らせる」のが大変だったわけよ。自分ひとりなら容易いけど、30人にもなる講者を連れていくからね。そういうことを3回やって、私も先達になった。
──ずいぶんと厳しい修行もされてきたのではないですか?
修行もだけど、やっぱり平素の「行い」だよ。普段からいかにしてみんなに慕われるような行いをするか。それがいちばん。修行のような「行(ぎょう)」は自分がすること。人にやらせるためじゃねぇんだ。自分が勉強するために行をするんだから。それよりも「誠意をもって、みんなのためになることをしなさい」。富士講というのは、ほんとうにそれだけですよ。今でいう「ボランティア精神」ね。
私の小さい頃はね、戦争があった。小学5年生までは毎日学校に通って勉強できたけど、6年生になってからは出征兵士の家に行ってボランティアばかりしてた。それでも、雨降りの日だけは学校に行けたんだ。そんな時代に先生が言っていたのは「字だけは覚えろ」ということ。「ほかはいいから」って、そういうふうに教わって手伝いばかりしてきたんだ。
終戦後もみんな帰ってこないだろ。私は百姓だったから、田植えでもなんでも、まわりの家のぶんまで手伝わなきゃいけなかった。5軒ぶん、6軒ぶん、みんなの仕事が終わるまで手伝うんだよ。休む暇なんかなかった。それなのに当時の税金は高くてね。自分の稼ぎもままならないのに払えるわけないじゃない。それで、税金が払えなくなって出稼ぎに行ったのが造船業の木を切る仕事。そういう無理がたたって足を怪我しちゃったというわけ。
──先達は、富士講に入る前から「みんなのために」だったんですね。「みんなのために」という教えと「富士山に登る」ということは、どうリンクしてくるんですか?
「富士山に登りたい」という人がいたら、「じゃあ何年先にしようね、そのときまでみんなで金貯めといてね」というのが講のやりかたなのよ。私の時代だと3年にいっぺんぐらいかな。小学生でも年寄りでも誰でも連れていったよ。登るときは、みんなで仲良く登って笑顔で帰れるようにしなきゃいけない。「ブスッとした顔をしていてはいけないよ、笑顔であいさつをしながら登ろう」私はそういうふうに言ってんだ。「笑顔が良いか悪いかであなたたちの行いがわかるんだよ」って。
──「富士山に登ることは、あの世に行って生まれ変わること」これはどういうことなんですか?
いかにして「清浄心」になれるか。最初は邪念があっても山を降りてくるときには清い心になれているかどうか。どうしたらそうなれるかということをさ、みんなに諭しながら先達の役目を果たさなきゃいけない。私は小学生まで連れて行ったけど、富士山を登っている途中でいろんな人にすれ違うだろ? 私がみんなに、おう、おう、って挨拶してるとね。子どもたちが「先達はなんで怒らないの?」って聞いてくるんだ。大変な山登りでも怒った顔や疲れた顔をしちゃいけないんだよ。いかにニコッとした顔をみんなに見せてね、そうすればみんながニコッとできるだろ。笑顔で過ごすことが人間のいちばん大切なことなんだよ。
──足に大怪我をされたことで、富士山に登るのも人一倍大変だったんじゃないですか。
そうでもなかったんだけどね。5年前からいよいよ足を悪くしちゃってね(※繰り返すが先達は現在88歳だ)。5年前までは、元祖室(※食行身禄が即身成仏した7合五勺の烏帽子岩)まで登ってたんだ。元祖室にお宮を建てるときなんか、1週間ぐらい泊まってた。建てる人たちが「拝んでくれなきゃ仕事ができない」って言うもんだからさ。「きょうはごくろうさまでした、おかげさまで本日も無事に終わりましたよ」って、毎日泊まりこみで拝んだんだ。
──吉田口登山道を「麓から登山」する人にアドバイスはありますか?
そうだな、食行の歌を知るのがいいんじゃないかな。『冨士の山 登りてみれば 何もなし よきもあしきも わが心なり』ってね。
──あ、それは聞いたことがあります。 食行身禄の歌だったんですね。
食行の教えはぜんぶ歌だったの。『三国の 光の元を尋ねれば 朝日に夕日 富士の神鏡』からはじまるんだけどね。たとえば、これは「富士は極楽だ」と言ってるんだ。
──ひとつひとつの歌が教えになっているんですね。わかりやすいですね。
これは、私の書いた焚き符だけどね。こっちは角行さんが書いた文句なんだ。これを明日の開山祭で焚き上げなきゃいけない。
──お焚き上げとは燃やした煙を天に届けるということですか?
そうそう。焚き符の墨をする水は、烏帽子岩の湧泉の水を使うんですよ。それか北口の御手洗の水(※泉水のこと)。その水で墨をする。でも、色が薄いでしょ。墨を濃くできないんだよ。近頃は手がしびれてね。
──それでも、先達さんが「する」ことに意味があるんですね。
そうだね。この前も別のところで「炊き符をしたいから、先達、お願いします」と頼まれて。「じゃあ、書いて送ってやるよ」ってね。「おかげさまでよく上がりました」なんてね。縁起をかつぐんだよ。煙がまっすぐ上がるか、斜めに上がるか。
富士講はね、御師の家の台所を直すためにお金とか寄付したりもするんだよ。でも、私は金がないからできない。ないものは「行い」で返さなきゃいけない。なんだかんだいって、そうやって一生懸命ね、みんなのためになることをやりましょう、ということですよ。
──ありがとうございます。そろそろ筒屋さんにもたくさんの方がいらっしゃいましたね。開山前夜祭、楽しみにしています。
はいはい、ありがとう。よかったよ。あなたがたと会えて。やっぱりね、会うというのがいちばんいいことなんだよ。私もちっとはためになってんのかなと思えてね。みんなと仲良くしたいと常にそう思ってるんですよ。
10代の頃は「陸連」に入っていたこともあるという先達。それだけに足に大怪我をしたことは大きなショックだったに違いない。それも、戦後の「まさにこれから」というときだったのだから。それでも先達は(もちろん当時は「先達」ではなかったが)富士講に出会ったことで立ち直る。そして、怪我の後遺症も残るであろうその足で、70年近くものあいだ、たくましくも富士山に登り続けてきたのだ。
そして、88歳になった先達はたくさんの仲間に囲まれ、たくさんの人たちに必要とされていた。
インタビューの途中、御師の家である筒屋さんにはたくさんの富士講の方々が、開山前夜祭の準備のために訪れていた。先達の顔に久しぶりに見た人もいるのだろう。あちこちから先達への挨拶の声が飛び交うが、そのたびに先達は、おう、おう、おう、と優しい笑顔を向けるのだ。
ぼくはこのあと、開山前夜祭で儀式を行う先達を見守った。年季の入った白い行衣に身を包んだ先達はオーラが違う。ともすれば近寄りがたいほどに。それでも先達は、ふと、ぼくと目があうと「おう」と笑顔で手を上げてくださった。それが、思わぬ笑顔を引き出されるのだ。強張った顔もほろっとほどけてしまうほどに。
もしかすると、あなたも旅の途中で先達を見かけることがあるかもしれない。そのときは、ぜひ笑顔で挨拶をしてみてほしい。先達はきっと応えてくれるはずだ。