さて、この旅もここで折り返し地点だ。歴史を前に進めていこう。

中国と密接な関係を結びながら、16世紀まで貿易国として発展していった琉球王国。そんな琉球王国の存在は西洋人にも広く知られていた。16世紀のポルトガル人の手記には、こう書かれている。

──レキオ。国王は中国皇帝の臣下で、中国に貢物をしている。レキオの島は大きく、人口も多い。彼らは独特の小船を持っている。大きな船も3、4隻持っているが、彼らは絶えずそれを中国から買い入れている。マラッカの人たちはレキオ人のことをこう語る。「ポルトガル人とレキオ人には何の違いもないが、ポルトガル人は女を買い、レキオ人はそれをしない」。われわれの王国でミラノについて語るように、中国人やほかの国の人たちはレキオ人について語る。彼らは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこのことについては死を賭ける。彼らは色の白い人々で、中国人よりも良い服装をしており、気位が高い──

彼らはなぜ、このような手記を残したのか。マラッカ人に琉球王国のことを尋ねていることからもわかるように、このころから、ポルトガルを中心としたヨーロッパ勢がアジアに進出しはじめていた。この記録はアジア貿易の覇権を握るための下準備でもあったのだ。やがて東南アジアからの撤退を余儀なくされた琉球王国に、不意打ちが重なる。

「薩摩侵攻」である。その後の琉球王国は日本の支配下に置かれながら、中国との貿易を続けることになる。が、悪いことばかりでもなかった。日本の影響で近代化が進み、さまざまな文化が花開いたのだ。旅を続けてほしい。

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