ぼくが和倉温泉に滞在していた2018年8月2日、「和倉温泉夏花火」がおこなわれた。

この花火もまた「最高のおもてなし」であった。もともと「旅館に泊まっているお客さんが旅館の窓から楽しめるように」という想いからはじまった花火大会で、火の粉で服に穴が空いた、爆風で窓ガラスが割れた、爆音が山に反射して山側の窓まで割れたなど、かつてのエピソードがまばゆいほど大規模な花火大会である。

さすがに現在では窓ガラスが割れるようなことはないが、港で花火を見ていたぼくは久しぶりに視界におさまらないほどの花火を体感した。それほど間近で大規模な花火が見られることは滅多にない。しかも、打ち上げの30分前にふらっと港を訪れたぼくが特等席に座れるほど空いているのだ。

花火が上がるのはそこからまさに至近距離。真上に上がっていく花火を眺めているとだんだん首が痛くなってくる。すると、みんながその場で寝転がりはじめた。都会の花火大会ではそうはいかない。それが許されるほどスペースにゆとりがあるのが素晴らしいではないか。

そして、花火はフィナーレをむかえた。最後にふさわしい特大花火が打ち上がると、パラパラと紙のようなものが降りかかってきた。拾い上げてみると、ほんのり火薬の匂いがした。

さて、花火が終わると温泉旅館でガイド原稿を練ったわけだが、和倉温泉のことを書くにあたって、田川捷一氏が著した「和倉温泉のれきし」には大変助けられた。その本の中で、とてもユニークな説があった。

和倉温泉の歴史は1200年前の「大同年間(806年〜810年)」にさかのぼる。が、そのことが言われはじめたのは明治時代になってからだという。それまでは「海中に温泉が噴き出した」のは確かであるが「それがいつなのか」は知られていなかった。田川氏は「大同年間説」を否定するわけではないと前置きしながらも、明治時代の学者が筋書きを書いたのではないか、と指摘する。

どこの温泉地であっても、行基や空海などの有名な僧侶が開湯したとするところが多い。和倉にはそのような箔となる由来がなかった。そこで、明治時代の学者もまた和倉の歴史をまとめるのに多くの伝説を持つ空海を選んだ(空海が唐から戻って真言宗を開いたのは806年である)。しかし、学者もさすがに「空海が和倉温泉を開いた」と直接的に言うのは憚られたのか、それを暗示するように「大同年間に開いた」と書いた。

そのとき、歴史的に辻褄があうかも念入りな考察がなされた。すると、ある障害が見つかった。748年に大伴家持が和倉を舟で通りかかっており、そのときの様子を和歌に書き残していた。が、温泉については一切ふれられていなかったのだ。大同年間とは、大伴家持が和倉を訪れてから60年後のことなので直接的な齟齬はない。しかし、それからわずか60年のあいだに海中より温泉が噴き出したとするのも不自然だ。そこで念には念を入れて「大同年間に湯の谷で噴き出した温泉がのちに海中に転じた」としたのではないか、というのである。

歴史というのはつくづくミステリーである。あなたも和倉温泉の湯に浸かりながら、その湯がいつどこではじまったのか、想像に浸ってほしいと思う。和倉の歴史を掘りあてるのは、あなたかもしれないのだから。







ON THE TRIP 編集部
文章:志賀章人
写真:本間寛
声:五十嵐優樹







※このガイドは、取材や資料に基づいて作っていますが、ぼくたち ON THE TRIP の解釈も含まれています。専門家により諸説が異なる場合がありますが、真実は自らの旅で発見してください。

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