ここに流れているのは「五十鈴川」。せせらぎの音が「いすす」と聞こえるから五十鈴川、という説もあるが、あなたにはどう聞こえるだろう。

「すすぐ」から五十鈴川、という説もある。ここにくる途中で「手水舎」があったはずだ。手水舎とは手や口を水ですすいで洗い清める場所。ただし、明治時代に手水舎が建てられるまでは、五十鈴川の水で身を清めるのが習わしだった。五十鈴川は「御裳濯川」ともいわれ、天照大御神を伊勢に導いた「倭姫命」が御裳の裾をすすいだという言い伝えも残されている。

あなたもこの場所で身を清めてみてほしい。五十鈴川に手をひたすだけで、川の流れがすすいでくれる。その触感にも感覚を澄ませてみよう。清々しい気持ちになれたなら、それが心身ともに清められた証かもしれない。

なぜ、日本人は身を「清める」のだろうか。

日本には「けがれ」という概念がある。一説によれば、けがれとは「気」が「枯れる」ことであり、「気」のもとになるのが「水」である。人間の身体は60%が水分といわれるが、80歳になると50%に減る。植物と同じように人間も枯れていき、最終的に死なびれる。逆に、生まれたばかりの赤ちゃんの身体は70%が水分ともいわれ、まるでこんこんと湧く(=若い)泉のようにみずみずしい。そのように若くて気がよい状態のことを「清い」という。

伊勢神宮に来て「心が洗われました」と言う人は多い。しかし、本当は「心が洗われた状態で」お参りしなければならない。日本の神様は「けがれ」を嫌う。けがれたままで会いに行くのは失礼にあたるのだ。だから、御手洗場や手水舎で身を清めてからお参りをする。

「けがれ」とは、悪いことをすると取り憑くような類ではない。ふだんどおりの生活をしているだけで「気枯れ」ていく。日本人が「お風呂好き」なのは、けがれを日々清めようと考えていたから。トイレのことを「御手洗」というのもそう。昔は「みたらし」と呼んでいた。これも「トイレのあとは身を清めよう」と考えていた名残なのかもしれない。

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