仁淀川が木材などを運ぶ輸送路であったころ、「川口」がひとつの起点となっていた。そのことについては「鎌井田」でも紹介したが、舟運の筏師という仕事は本当に過酷な仕事であった。

「日ノ瀬」など、地名に「瀬」がつくのは筏場であった場所ともいわれ、そこで川の流れをせき止めておき、その水を開放する勢いで舟が走り出す。川の水はちょっと増水しているぐらいのほうが輸送路としてはチャンスであり、それはもう命がけのラフティング。川口より上流になるが、現在の大渡ダムの下には大きな岩が並ぶ難所があったようで、そこに激突して亡くなる人も少なくなかったという。危険はそれだけではない。海賊ならぬ川賊もいて、舟の積荷を狙う不届き者もいたようである。

出発前は「俺にもしものことがあったらあとのことは頼んだぞ」と家族で盃を交わし、神頼みを重ねたうえで出発。それから2週間後までに無事に帰ってくるか否か。残された家族は日々を祈りながら過ごしていたことだろう。

旧川口橋が建てられたのは、仁淀川がそのような時代を終えて、陸の道路が発達した1935年のこと。しかし、よく見てほしい。橋脚がレンガ積みなのである。一見、脆そうなレンガでも積みかたを工夫すれば100年の川の流れを受け止めることができる。そして、現在まで人の往来を支えている。

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