壺屋は戦争の被害が比較的少なかった。
なぜなら、次の写真を見てほしい。
1944年10月10日、米軍は港や市街地が密集する旧那覇エリアを爆撃した。その被害がいかなるものかは、旧跡すら残っていない旧那覇を歩いてみればわかるはず。しかし、壺屋の位置を見てほしい。壺屋はちょうど農村との境目に位置していた。当時の那覇の中心地から外れていたため、破壊されずに済んだのだ。
ただし、空襲は前哨戦に過ぎない。沖縄に上陸した米軍との地上戦は熾烈を極めた。「首里」や「おもろまち(シュガーローフ)」のあたりは日本軍の抵抗も激しく、徹底的に破壊された。壺屋はどうだ。すでに住人の避難も終わり町には誰もいなかった。そのため、地上戦でも被害が小さかったのだ。
「すーじぐゎー」とは路地のことであるが、この通りには、戦前からの石垣が残っている。曲がりくねった細い道筋も、その先に見える大きなアカギの木もそう。あなたが歩いている道は、戦前の壺屋の風景を今に伝える道なのだ。