※この項目は速報のため、記述に誤りが含まれているかもしれない。


2019年1月24日。中城グスクが新聞のトップを飾った。近代に積まれたとされる城壁を修復していると内側から新たな城壁が見つかったのだ。それも歴史を書き換えるような大発見だという。

しかし、発見された城壁はすぐに埋め戻されてしまうため、2月3日までの約1週間しか見られない。それも次に見られる機会はいつになるかわからないという。

そう聞いて駆けつけてみると、このガイドを最後まで読んでくれた方であれば、驚くであろう光景が待っていた。

色の白い部分が今回発見された城壁である。14世紀、つまり護佐丸が来るより前に築かれた古い城壁にもかかわらず、あまりにも美しく積まれた豆腐積みに目が奪われる。しかし、ほんとうに注目すべきは最下部。

ぼくたちは特別に許可をいただいて「底まで掘ってみた」という根元の部分まで覗かせてもらった。

クチャのような茶色い土は地盤。黒い部分は人が生活していた層だという。この黒い層から14世紀前半のものと見られる陶磁器の破片が見つかった。そして、それらの層の上に白い城壁が積まれている。つまり、14世紀前半の層を削って今回の城壁が築かれているわけなので、城壁が積まれたのは14世紀中頃ではないかとも考えられている。

これは中城グスクが築城された時期と重なる。この白い城壁こそが中城グスクの最初の城壁かもしれないのだ。

ここで、前の写真を見直してみてほしい。

城壁の最下部を支えるために手前のゴツゴツした岩で「おさえ」をしてあるのがわかるだろうか。そして、その岩ごと土で押し固めていた様子も見てとれる。これは、城壁と地盤の接着点がむき出しのままだと雨などで地盤の土が削れていってしまうから。そうならないようにカバーしていると考えられている。

最後に、白い城壁の上部を見てほしい。白い城壁は7mほど(当時はもう少し高かった可能性もあるらしい)だが、その上に黒い城壁が乗っかっている。以前から見ることができたこの部分は15世紀に上積みされたもの。これが時期からして護佐丸が築いたものである可能性もあるという。おそらくは、補強のために、白い城壁に上乗せするかたちで築いたのだろう。

ちなみにペリーの探検隊が中城グスクを訪れた際に残したスケッチ。ここにも今回の壁が記されている。

そのスケッチには、石段の上に立っている人と、城壁の上から何かを垂らして高さを測ろうとしている人がいる。彼らはちょうどこのあたりにいるわけだが、そこに描かれている城壁は、よくよく見るとこの城壁かもしれない。つまり、ペリーが訪れたころには、今回の白い城壁が露出していたのだ。もっとも、当時は黒色だったのかもしれないが。はたして、それはどういうことか?

あちこちに修復のために並べられている城石も含めて、新しい石灰岩は白い。が、これは城壁として積まれて陽にあたり続けると黒くなる。実は、これは人間の肌の日焼けのようなもので、しばらく陽にあたらないと白色に戻るという。つまり、ペリーの時代より後の近代になって、この城壁の外側に新たな城壁が築かれた。そのとき、内側の城壁はすっぽり覆われて陽があたらなくなった。だから、白色に戻っていったと考えられている。

ぼくはといえば、“最初期の城壁”がこの地に存在していた可能性を興味深く思った。グスクはもともと御嶽から発展していくものだとすれば、御嶽が集中してる「南の郭」を起点として築城されたものとばかり思っていた。しかし、意外にも、このあたりが中城グスクの中心点であったのかもしれない。そうなると重要性を増してくるのは、最初期から壁で分かたれることになった「ミートゥガー」。沖縄の井戸は神聖な御嶽。この井戸と南の郭と井戸を分断するかのように築かれた最初の城壁にどんな物語があったのだろうか。そこからはじまる、中城グスクの「エピソード・ゼロ」をまた先生にうかがってみたいものだ。そしてまた、自分が信じる物語を見つけていきたいものである。

Select language