等伯の人柄をひとことで表すならば「野心家」がふさわしい。
等伯が活躍した安土桃山時代は群雄割拠の世界。油断すれば食われる世の中で、大名たちは生き残ることに必死になり、争いを重ねていた。
この時代に武士の世界で天下をとったのは豊臣秀吉。絵の世界で天下を取ったのが狩野永徳である。狩野永徳は「唐獅子図屏風」「洛中洛外図」など、有名な作品を数多く残している。
この永徳に反旗を翻し、絵師の天下を取ろうとしたのが等伯だった。
等伯の生まれは石川県七尾市。その土地で何代も続く絵師の家系に養子に出され、幼少期から修行を行い、地方では絵師として一定の地位を築いていた。
狩野永徳をはじめ、当時の絵師はアーティストではなく、公家や大名、寺院や商人から仕事を受けていた職人である。
絵師としての成功は、いかに大きなパトロンから仕事を受けるかに左右される。その点で狩野永徳は、織田信長や豊臣秀吉、公家や天皇家からも重用され、多くの弟子を抱える大家であった。永徳は「絵師の天下人」と言っても過言ではない権力と力を持っていたのである。
対する長谷川等伯は、地方では成功していたとはいえ、技術はあるがコネもツテもない地方の一介の絵師。等伯はそれに我慢できなかったのだろう。さらなる成功を望み、養父の死後、絵師の天下をとるために京都に攻め入った。この時、等伯は33歳。平均寿命が短い当時としては、かなり遅咲きのスタートだったのだろう。