戦火をくぐり抜けた文化財たち。

沖縄の4人にひとりの人が亡くなった太平洋戦争。文化財も壊滅的な被害を受けた。たとえばここにある扁額。「致和」という文字は琉球王国の国王が自ら書いたもので、縁をよく見ると朱色の漆に龍の模様で飾られていた形跡も残る貴重な宝物だ。しかし、穴が空いている。なぜか。単なる木の板と勘違いした米軍の兵士によってトイレに使われそうになったからだ。

その隣にあるのは、戦前に国宝指定を受けていた朝鮮鐘。そう言われても気づかないかもしれない。戦争で失われ、今は龍頭と呼ばれる鐘の頭の輪っかの部分しか残っていないのだ。

しかし、破損された状態だとしてもこうして博物館に残されていることは奇跡でもある。終戦後、故郷に戻った人々は、だれに言われるでもなくバラバラになった文化財のかけらを拾い集めた。そうして集まった文化財を展示する「首里市立郷土博物館」がスタートしたのは1946年3月。まだ那覇や首里の人々が収容所から帰ってきて半年。明日の生活もままならない中だった。

米軍側にも文化財の保護に動いた人がいた。海軍の教育担当ハンナ少佐は1945年8月、終戦後に万国津梁の鐘を現在のうるま市の石川市東恩納に運び、「沖縄陳列館」を開設。このふたつの博物館が、この沖縄県立博物館・美術館の原型になっている。

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