城の脇を豊かに流れる長良川。はるか西には、京へと続く関ケ原が見える。京と関東をつなぐ東山道。美濃は交通の拠点だ。すべてのものがここに集まる。どちらへも攻め込める。京からこの地を選んで流れてきた道三様の父上は、おそらくは天下取りをもくろんでいたに違いない。道三様の代になり、美濃国はたいらげた。しかし、道三様はもはや若くなかった。天文23年(1554年)、家督を長男の高政様……いや、その後、義龍と名を変えたが、その義龍様に譲られたのだ。

家督を譲りはしたものの、何かにつけて道三様は、義龍様を「愚か者」とののしった。それでいて、下の弟二人をやたらとかわいがる。いつ義龍様を廃して、弟に家督を譲らせてもおかしくないほどに。そのせいだろうか。「義龍様は道三様の実の息子ではない。真のお父上は、道三様に追放された土岐頼芸様である」といううわさが、まことしやかに流れ始めたのは。

義龍様は憤った。病を装って稲葉山城に引きこもると、「今生の別れに伝えておきたいことがある」と弟二人を呼び出した。そしてあっさりと、この二人の斬殺に成功する。弘治元年(1555年)、11月のことだ。これを知った道三様がどんなにお嘆きになったか、そしてどれほど憎しみを抱かれたか……。道三様は城下町を焼き払って逃走し、大桑城に移られた。そして、この稲葉山城へにらみを利かせていた。

道三様には愚か者と呼ばれていた義龍様だが、家臣からの信頼は厚かった。「義龍様こそ、我らが土岐一族の正当な血を引く主君である」。そんな、嘘か真かわからないうわさが功を奏したのかもしれない。義龍様の元に集まった兵は1万人を超えた。対して「美濃の蝮」と呼ばれ、主君を追いやって国主の座についた道三様に味方する兵はわずか2,000人ほど。いくら戦術にたけた道三様でも勝ち目はない。我が明智は……これまで明智家を取り立ててくださった道三様の側に付くと決断した。

弘治2年(1556年)4月。大桑城から南下し、鶴山に陣を張った道三様の兵と、稲葉山城の義龍様の兵とが激突したのは、眼下を流れる長良川の河川敷だった。多勢に無勢。勝敗は数日で決まった。道三様はこの川原で首を取られる。そして、その日を境にして、道三様の側についていた私も、この美濃国を追われることとなったのだ。


【解説】岐阜城の西を流れる長良川の河川敷に、現在は野球場や陸上競技場がある。この「岐阜メモリアルセンター」のちょうど右手あたりで斎藤道三は討ち取られたと言われている。その場所には、現在でも道三の墓「道三塚」が残されている。
はるかに見える山々の境にあるのが関ケ原であり、その手前には大垣城がある。

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