長良川の水運に初めに目をつけたのは道三様であった。長良川の上流では優れた物が生まれる。金属や刀、和紙に材木、そして油や絹……。それらを運ぶのに、川の流れはもってこいだ。信長様も道三様と同様に、この町を掌握しようとしている。一筋縄ではいかない商人たちを懐柔し、商業の中心地として発展させているのだ。
橿森神社の辺りでは、信長様は「楽市楽座」も取り入れていると聞く。特権を持った一部の商人だけでなく、誰もが商売できるようにしたこのやり方も、もともとは道三様が試みたものだ。これを信長様はさらに発展させた。信長様の支配下の国であれば、商人たちは自由に行き来ができる。関所で税を払う必要は無い。さらに、加納に移り住めば、これまでの借金の返済も免れる。従者だった者が逃げ出してきてここに住むならば、もとの主人とはすでに関係が切れているとし、連れ戻すことを禁じた。このほかにも、さまざまな税が免除される。
信長様は、米ではなく、銭によって国を造ろうとしているのだ。これは、武田信玄や上杉謙信には無い発想だ。武田や上杉の兵の多くは、普段は田畑を耕している。重労働の農作業には屈強な男子が必要だ。ひとたび戦が起きれば、領主の権限として、彼ら農民を徴兵する。しかし、国を支えているのは農産物である。よって、田畑が忙しいときに戦はできない。もし武田や上杉が京を制したとしても、春の田植えまでには兵の九割を本国へ返さなくてはならないだろう。すべての兵が総動員されるのは、一年のうちせいぜい3ヶ月程度でしかない。
それを信長様は、農民を兵に仕立てるのではなく、銭を払って兵を雇っている。その銭を得るために、商売を礎にしているのだ。銭があれば鉄砲や火薬も買える。そして、なるほど、町が潤い流通が盛んになれば、多くの商人がこの岐阜を目指してやってくる。集まるのは銭だけではない。他国からやってきた者たちは情報も運んで来る。いち早く敵の情勢が知れるというわけだ。信長様は道三様から学んだことを基礎として、新しい時代の国を造ろうとしている。道三様が見込んだ通り、この信長様がやがて時代の覇者となるのかもしれない……。
【解説】長良川の川湊として栄えたこの地の川上には、刃物で有名な関や、美濃和紙の産地・美濃などがある。美濃和紙は、奈良の正倉院に納められた日本最古の和紙として知られている。このような上質な品物を流通させるために、古くから長良川の水運がいかに重要であったかがうかがい知れる。現在の川原町は、町屋を改装したカフェや老舗の和菓子屋、美濃和紙を使った伝統工芸品である「岐阜うちわ」や「岐阜和傘」を販売する店などが立ち並ぶ散策スポットとなっている。なお、「川原町」という呼び名は、湊町・玉井町・元浜町一帯の通称であり、実際の地名ではない。