岐阜に義昭様をお連れするとなれば、場所はこの立政寺がふさわしいだろう。今私は、足利将軍家の手足となって動いているこの自分に、この上ない喜びを感じている。故郷を追われたこの明智が、かつて「奉公衆」だったように幕府の直臣となったのだ。この乱れに乱れた日の本をひとつにまとめられるのは将軍家をおいて他にない。足利幕府再興のため、土岐の一族として生を受けたこの身を使いたい。
人が信長様を「うつけ」と呼ぶのもわからなくはない。かつて、まだ幼さの残る青年の信長様を見かけたときには、このような武将になるとは思ってもみなかった。信長様は、人より何歩も先の未来を見ている。斬新すぎるのだ。そして、その思想の根底には、道三様が今も息づいている。信長様は道三様から美濃国を受け継いだだけでなく、国造りの理想も学び取った。私と信長様は、道三様から同じものを引き継いでいる。
「岐阜」にその名を変え、発展を続けるこの町。それを目にした私は、信長様という男に圧倒され始めている。信長様の新しき力を将軍家のために利用しない手はない。足利義昭様をこの美濃国にお連れいたそう。そして信長様の才と強さによって京を目指すのだ。
【解説】永禄11年(1568年)7月、足利義昭は越前を出発して美濃に向かった。そしてこの立政寺に逗留し、信長と面会を果たす。
立政寺は、関ケ原の戦いの前に徳川家康が立ち寄ったことでも知られている。このとき住職がお盆に名物の柿をのせて振る舞おうとしたが、うっかりいくつかの柿を落としてしまった。機転を利かせて「大柿が落ちましたな」と言ったところ、家康はたいそう喜んだという。大柿、つまり「大垣城」には、敵対する西軍の石田三成が陣を張っていた。