本丸の北側に位置する御深井丸には、猿面茶席、望嶽茶席、又隠茶席、織部堂の4つの茶室があり、それぞれに興味深いエピソードがある。

中でも、猿面茶室は、織田信長が古田織部(織田有楽斎という説もあり)に命じて造らせたもので、徳川家康が名古屋城に移築させた非常に由緒ある茶室だ。「猿面」というユニークな名前は、床の間の柱に枝を切り落とした跡がふたつあり、それを見た信長が「猿、お主の顔のようだ」と、家来の秀吉に言ったからだといういわれがある。では、この猿面茶室、もともとは名古屋城のどこにあったのだろう?正解は、二之丸御殿。江戸時代、名古屋城を正式に訪れる客人は、まず茶室でお抹茶を振舞われた。その茶室こそ、この猿面茶室だったのだ。もともとあった猿面茶室は、残念ながら戦火で焼けてしまい、現在御深井丸にあるものは、猿面茶室を復元したものとなっている。

興味深いのは、4つの茶室のうち、3つは1949年に、残りの1つは1953年にそれぞれ復元、移築、建築されているということ。終戦直後、かつ1955年の天守再建を待たずに、茶室が4つも登場するのは、茶の湯を愛好する名古屋の経済人たちが、街に活気を取り戻すべく、戦後いち早く保存の会を発足させて実現させたから。意気消沈している人々を喜ばせるために茶室を造ってしまうとは、お茶好きの多い名古屋らしいエピソードだ。これらの茶室が公開されるのは年に数回のみだが、使用料を払えば、お茶会や結婚式などの催し物に使うことができる。年に100件以上の利用があるそうだ。毎年春と秋に行われる名城市民茶会の会場としても使われ、まさに「市民に開けた茶室」となっている。

ところで、「御深井丸」という聞きなれない名前の由来は、御深井丸の北側にあった池が「深井(ふけ)」と呼ばれていたことに由来する。この池の周りは庭園になっていて、ちょうど今の名城公園のあたりが「御深井庭園」だった。たいそう風情だったという御深井庭園には、瀬戸山という人工の山があり、職人たちが陶器を造っていた。ここで焼かれた器は「御深井焼」と呼ばれ、初代城主の時代からしばらくは、たくさん造られていたが、後に廃れかけていたところを、12代城主の斉荘公が復興させたとも言われている。さすが、お茶好きのお殿様である。

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