1818年、イギリスで『朝鮮・琉球航海記』という旅行記が出版された。著者のバジル・ホールは、東シナ海海域の調査や測量のために派遣されたイギリス海軍の大佐。彼は自分が乗ったイギリスの船が、その2年前に琉球王国に40日間滞在した時の体験を、日記としてまとめている。この本は何度も増刷がかかり、オランダ語やフランス語などに翻訳されるベストセラーになった。
なぜヨーロッパからすれば極東の小さな島国への旅行記がヒットしたのか?
鍵を握るのは、この本での琉球王国の描かれ方ではないかと思う。
バジル・ホールの記録によれば、琉球の人々はイギリスの船が港に着くと、すぐにやってきて水や食料を無償で提供してくれた。役人たちは武器を持っておらず、優雅で上品な身のこなしをしていて、何人かはすぐにイギリス風のマナーや英語を習得してしまった。ユーモアのセンスもあり、鋭い観察眼も持っていた。そしてイギリスの人々をご馳走でもてなし、優雅な舞いを披露し、別れを惜しんでいつまでも扇子を振ってくれていた。
日記の中でホールは、とくに首里王府の関係者たちのふるいまいに対して「優雅」という言葉を何度も使っている。そして「琉球の人々はいちじるしく文明化している。 人々は無欲で、完全に満足しているように見える」と記している。これを読めば、誰だって、遥か遠くにある理想郷みたいな美しい島に興味を持つのではないか。
もちろんここにはバジル・ホールには見えなかった事情もある。琉球の人々が彼らの滞在中の一切に関してお金を要求しなかったのは、中国と日本が欧米との交易を認めていなかったからであり、面倒な事態を発生させたくなかったから。また、ホールに「武器がない」と思わせたようだが、それは薩摩に厳重に管理されていたから。
ホールの目に映った貨幣や武器については、表向きに振る舞わざるを得ないさしせまった事情があったためだが、滲み出る文化や教養は一朝一夕に身につくものではない。
琉球王国は、当時の国際社会のなかで武力ではなく、教養や文化の力によって威信を保つ国だった。また首里王府には、冊封使をもてなすため中国や日本の芸能を研究して独自の演目を創作し披露した踊奉行(おどりぶぎょう)という役職や、献上品、贈答品としても扱われる漆器のデザインを担当した貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)という役所などがあり、礼節や美を通じた琉球王国の対外交流が展開された。
武力を通じた「強さ」よりも文化を通じた「しなやかさ」。
これも小国が生きる知恵だったのではないか。
それは今の日本にとっても示唆に富む考えだと言えるのではないだろうか。
王国亡きあとも、文化は残る。かつては首里城を起点として発展してきた美意識、料理や酒、芸能や工芸品などには変遷があるが、現在も人々の中に生き続けている。
首里城探索のあとは、ぜひ首里の町歩きを通して、その文化も体験してほしい。