戦後に椿山荘を引き継いだ藤田興業の創業者・小川栄一は、荒廃した東京に緑のオアシスをつくろうと、一万本もの樹木を移植してこの場所を復興させました。春夏秋冬、さまざまな花が咲き誇るこの庭園ですが、未来にまでもこの自然を受け継いでいくため、現在、小学生とともに行う植樹の機会を設けています。また、山縣公も魅了された、いにしえの「椿山」の再現を目指し、椿の植樹にも取り組んでいます。
椿山荘庭園のシンボルの一つは、やはり「椿」です。野生種のツバキは日本が原産で、その学名も「Camellia japonica(カメリア・ジャポニカ)」といいます。江戸時代に長崎の出島を訪れた博物学者シーボルトは、1853年に出版された『日本植物誌』の中で、椿を「冬のバラ」というロマンティックな呼び名で紹介しています。その後、椿は「花の貴族」として讃えられ、ヨーロッパで大ブームが巻き起こりました。オペラ『椿姫』が生まれたのもこの頃のことです。
「冬のバラ」と言われるように、椿の花の盛りは2月から4月。鮮やかな花の少ない真冬に、真紅の彩りを添える貴重な花です。冬でも葉を落とさない常緑樹であり、そのツヤのある青々とした葉は、一年を通して庭園に活気を与えています。椿は茶道でも、茶花として珍重されてきました。冬の茶席は椿一色となることから「茶花の女王」とも呼ばれます。
俳句では「落椿(おちつばき)」が春の季語として用いられます。桜のように、はらはらと花びらが散るのではなく、首ごとぽとりと落ちる。その潔さが武士道の美学に通じるとされ、多くの武士たちにも愛されてきました。豊臣秀吉が建てた伏見城には多くの椿が植えられ、「椿の城」と呼ばれました。徳川家康が江戸幕府を構えたとき、祝いの品として献上されたのも「白玉椿」という椿の花でした。とくに、二代将軍・徳川秀忠は、大変な椿好きとして知られています。
「椿の花は首が落ちるようで縁起が悪い」という話を聞いたことがあるかもしれません。これは、江戸時代にあまりにも椿が流行し、珍しい品種を求めて異常な高値で売買されたり、窃盗まで発生したりしたために、それらを戒めようとして流された流言だったと考えられています。
世界中で熱狂的に愛された椿は、日本国内で作られた品種だけでも2,000種を超え、世界を含めると6,000種もの種類があると言います。花の色や花びらの枚数の違いを見比べるだけでなく、「変わり葉」と呼ばれる一風変わった形の葉っぱを鑑賞してみるのも面白いものです。