部屋の中であなたを迎えるのは、巨大なフェナキストスコープ。これは円盤に描いた連続する絵を鏡に映し,高速で回転させながら円盤上のスリット、つまり細長い切れ目を通して見ることで,絵が動いているように見える初期のアニメーション装置だ。

部屋の電気を落としたあと、銀色のスイッチを入れ、装置を起動してみてほしい。そうすると、部屋の壁面にあるフェナキストスコープが動き出す。円盤に描かれた京都の街がぐるぐると回りだし、町家の灯りがついたり消えたり。幻想的な京の街が浮かび上がる。

アーティスト三嶋章義は、「縁起」という言葉には「互いに相まって存在している現世(げんせ)で、自身と世界の境界であり扉である」という意味があると考える。その発想からつくりだしたのがこのアートルーム。「縁起」を、”私” と ”世界” の接点を見出すための境界の場所として表現した。自分と新しい世界とが繋がるとき、その境界から新しい何かが始まる。ここからどんな体験が生まれるのか、アーティスト本人の言葉から紐解いていこう。

ーー自己紹介をお願いいたします。

三嶋章義(みしまあきよし)です。アーティストをやっています。僕は3年前から奈良に住んでいます。関西出身ではあるんですが、2000年初頭から約20年ほど東京で活動していました。所属は「NANZUKA」というギャラリー。今では渋谷も、都市開発ですごいことになっているけど、その頃はもっとアンダーグラウンド感が漂っていたり、高架下にグラフィティが溢れていたり、そこらへんでパーティをやっていたり。そういう時代を東京で過ごして。グラフィックデザインと、映像と、ファッションブランドと。もちろんアートと並行しながら、20年近く制作を行ってきました。

ちょうど「3.11(東日本大震災)」があって、そこから日本に対する意識がちょっと変わってきました。 その頃から、海外での展示も増えていって。海外の人から日本のこと、僕たちが日本で暮らしていたらわからないことを指摘されたり。「3.11」をきっかけに、日本の良いことも悪いことも含めて、色んな問題が明るみにでた。僕はそれまでは、どっちかというと欧米に対して意識が向いていたんですが、「3.11」をきっかけに日本に対して意識が向くようになりました。そこから出身である関西、奈良にも意識が向くようになって。

そこから日本の文化に傾倒していって、奈良に引っ越してくることになったんですね。それが3年前ぐらい。今は奈良で暮らしながら、アート活動、作品制作をやりながら、地域のことを考えるようなポジションにいます。僕は作品制作だけがアーティストの使命だとは思っていなくて。結局は「どうやって未来を考えようか」ということだと思うんです。自分の作品で対話することもあるし、自分の活動やアウトプットじゃなくても、世の中に見せていけることはあると思うんです。最近はそういったことが、東京にいた時より面白くなってきています。

ーータイトルについて教えてください。

タイトルは最初から決めていたことじゃなくて。これは僕の制作でよくあることなんですけれども。日々変わっていく中で、けど想いとしては変わっていないのが、このタイトルに込められているいう…。

京都、日本という所もそうかもしれませんが、京都って境界線がいっぱいあるなと思っていて。仕切りとか敷居のように、「ここから行っちゃいけないよ」とか「ここを越えると神聖な場所だよ」と示しているというか。そういう場所に行くと、空気をチェンジするというか、ピンとする場所だと感じる。それって定められているからなのか、感じるからなのか、多分両方だと思うんですが。そういう意味でこの部屋をつくるにあたって、「境界線みたいなものをつくりたいな」と思ったんです。

ーー空間自体を境界線と定義できるものにしたいと。

そうですね。入った時に境界線を越えていくというか。越えるのか、戻るのか。一線引いているという意味で。

ーー境界を跨ぐ、きっかけになる場所なんですね。

ーーベットと反対サイドにある円盤ですね。

僕の中ではこの円盤とベッドのイメージしかなくて。一晩をここで眠るということ、寝る前と睡眠中の時間軸と対峙するような感じで、ベッドの前に大きな円盤があるんです。境界線の中の、空間の、ある種のスイッチになるように、この装置をつくったんです。

ーーこのフェナキストスコープどういった装置なのか、その中にどういった世界を描こうとしたのかというところを、解説してください。

このフェナキストスコープって、昔の映像の装置というか、これが映像の始まりといわれているような装置なんです。モニターとかプロジェクターとか、いわゆる今、僕らが接している「映像」というものとはかけ離れています。単純にこの円盤が10等分されていて、つまり10コマのアニメーションですよね。その10コマのアニメーションが回転することによって、映像に見えるという。簡単にいえばそういうことです。ストロボ効果、スピードの関係とか、その辺りは調整しているんですけれども。

これをつくったきっかけというか、テーマとして「時間」というものがあります。時間というものを感じる、それがこの「MY ROOM」というか。「一晩で時間をどう使うか、どう捉えるか」ということが、僕の中のテーマです。自分自身に立ち戻ってみたり、未来を考えてみたり。何かここで…ある種、瞑想ではないですけど、もう少し考える時間に使ってほしいなという思いがあるんです。

ーー実際に装置をまわしてみましょう。

真ん中に向かってクリスタルみたいなものが上がったり、下がったり…と見えるシーンがあります。これは京都という街の時間軸というか、エナジー、エネルギーのようなものを表そうと思っていて。1300年前に奈良から京都に都が移って、奈良の人たちが京都に移動して、京都が都になって。奈良は都という意味では数十年しかなかったけど、京都はそこからずっと都として君臨していて。そこで生まれた文化もあるし、美術もある。政権というか、人間の力も入れ替わっている。妖怪の類だとか呪いだとか色んなものも、渦巻くような街。それを1つの円盤の中で、表したかったんです。都として君臨した1300年の時間を閉じ込めることはできないけど、京都に来た人が何か、そのエネルギーみたいなものを感じてもらえればなと。

僕の中で、この作品は「曼荼羅」なんですよ。すべてを1枚で表そう、できないことを実現しようという曼荼羅の精神。もちろん、見る人がどう捉えるかっていうことが、一番重要なんですが。

ーー本当は回転しているんだけど、画面が静止して、円盤の絵が映像のように動いて見えます。

時間が進むというか、戻るというか。

ーー作品にフェナキストスコープを取り入れ始めた理由やきっかけ、それをどういうものとして捉えているのかを伺いたいです。

フェナキストスコープを取り入れた作品は、これまでも何個かつくっていて。また今度もつくろうと思っている作品があります。さっき言ったように、これはそんなに新しいものでもなくて、すごく高次元のものでもない。こういう大きさで回っているということにおいて、デジタル要素がないんですよ。僕は映像作品もつくるのですが、映像って1秒間に24コマとか、30コマあるんですね。当たり前のことですが、コマの連続で、映像はつくられているので、誰がコマをふっていても全部同じなんです。

円盤を見ていると、1つのコマが固定されている訳ではなく、回転スピードと光のストロボの感覚が合った時に映像のように見える。けれど、 それは人の動体視力によって違って見える。僕が見えているものと、今、皆さんが見てるものが、本当に同じなのかもわからない。それぐらいアナログというか、曖昧なものなんです。合理的に定められた、みんなにとってわかりやすい定義の中であるようなもの。そういったものじゃないものに、僕は少し興味がある。

映像という時間の概念について、ループだと大黒君が言ったんですが、本当にループなんですよ。10コマという意味では1/3秒、映像が30フレームとしたら、1/3秒しかないんですよね。これは進まないんですよ。1/3秒しか進まないのに、それを見てる僕たちは、もっともっと時間を進めることもできる。その1/3秒の時に「何を考えるか」ということに興味があるんです。それと歴史的な観点から見ると、昔は言葉や文章はあったけれど、「リアルな時間以外に物事を共有する」という術がなかった。フェナキストスコープが元祖で映像が生まれたわけです。映像というより、時間を表現する、記憶するということが、正しいかもしれません。

今、僕たちは映画の時間に没頭し、その世界に入り込めるけど、昔はなかった。今は自宅で、Netflixのような配信サービスで、自分の好きな時間に好きな場所で映像に没頭できるぐらい、人間のサービスというのは進んでいます。

フェナキストスコープが映像の起源だということには変わりないですが、例えばNetflixから起源に戻り、もう一度歴史を重ねた時に、行きつく先がNetflixかどうか。僕は、Netflixにはたどり着かないと思うんですよ。

ーー映像の元祖に触れて、ここから改めて派生させようとした時にってことですよね。僕も同じ意見ですね。

普及率や便利さを合理的に判断して、VHSになっただけで、クオリティではないですよね。一人ひとりの決定権もない。映像だけじゃなく、他の物も進化して現在があるので、間違いだとは思わないですが、「そうじゃない可能性」を探る。物事を昔まで戻って、分岐をもう一度考え直した時に、どこにたどり着くんだろうということに興味がありますね。

ーーーー

「わびさび」みたいな時間軸って、僕たちの中では長い時間軸じゃないですか。何かが朽ちていく。すごく朽ちている神社だとかが奈良にもありますが、そこに何かエネルギーを感じます。大木とかもそうですけが、あれは僕たち人間の時間軸で生きていないし、感じてもいない。

その軸でフェナキストスコープを見たときに「僕たちは、一枚の絵を見た時に映像として感じる能力」が、どんどん弱まっていると感じるんですよ。動いているものも、記録しているものも、それを見ると合理的で分かりやすい。けれど、わびさびでいう「苔がむしている岩をみた時に何を想像するか」みたいなことは、映像からは学べない気がして。止まっているものから妄想したり、想像する能力をつくらないと。決してそれは、早送りできない。昔の人は、静止したものにも時間を感じたり、未来を感じることで、それを和歌の一つに用いることができた。そういうことって、僕たちは今、あまりできなくなっている気がしていて。そう意味で時間という概念が、どんどん狭くなっている気がするんですね。

この部屋に泊まってもらって、この一晩で何か特別に変わることがあるのか、ないのかはわからないけど。そういった意味で、作品と対峙する信念とか思いみたいなものを、感じてもらえたらいいかなと思いますね。

ーーこの空間について解説いただきたいと思います。

色々迷って、何回も何回も構想をやり直して、最終的にこのような空間になったんですけど。まずこの、フェナキストスコープがある面とそうじゃない面という、対極のところでいうと…

ーー空間の中ではベッド側と、フェナキストスコープがある側というところですね。

フェナキストスコープをどう囲うか。さっきから時間、時間と言っていますけど、イメージするなら、『ドラゴンボール』に出てくる「精神と時の部屋」ですね。1日が1年になるという。その部屋の時間軸は、現実にはありえないんですが、ありえると、思った方がいいというか。ものづくりも、何でもそうだと思うけど、時間をかけるからいいものができる訳でもないし、時間をかけないとできないこともある。ここを「精神と時の部屋」と考えると、白くしたかった。あとは隔たりというか、角みたいなものをなくしたかったので、部屋の角を丸くしました。

円盤の対にある水平線、これはただの白い壁ではなく、その先に奥行きを感じるようなものを置きたいなと。真ん中に黒い、深淵のような、太陽のような、アウラ(オーラ)みたいなものがあるんですが。円盤側と白い壁側が対になっていて、その真ん中に寝ることで、この空間の真ん中に自分を感じるというか。座禅やヨガでもないですが、自分の場所を定義する、自分の居場所を整えるという感覚に近いと思います。空間全体でこの回転に対峙し、回転を見ている自分がどう在ったのか。自分を眺めてもらえる時間になればいいなと。だから「MYROOM」というタイトルにしました。すごくダサい名前ですけど、すごく色々迷ったんですけど…。

ーーストレートな名前に立ち戻ったんですね、「自分と向き合う自分の空間」という。

そうですね。

ーー作品を通して、京都という街について伝えていただいた部分もありました。三嶋さんは京都の街にどういう感覚を持っているかということ、楽しみ方、おすすめみたいなものがあれば教えてください。

この絵にも込めていますが、京都って独特のオーラというか、雰囲気が感じられる街です。奈良とも違うし、もちろん東京とは全然違う。日本っていうものを形作ったのが、この京都という街だと思うんです。時代によって切り口は違うと思うんですが、いわゆる僕らや海外のゲストが思う「日本」というものをつくったのはこの街。「THE 日本」ですね。奈良は、ユーラシア大陸の端の気候が育んだ自然や太古感がある。山が多く、雨が多く、川になって海に流れていって…。そこには縄文時代に、狩猟民族から始まった僕たちのルーツがあると思うんです。

けど、京都の街はとても合理的に見える。大陸から伝わった文化を学んだうえで、日本という国土の民が一生懸命考え抜いて、角の、隙の隙まで、重箱の先まで整えたのがこの京都。そういった意味でいうと、2~3日では回りきれないぐらい、謎とロマンに溢れている街というか。だから魅力的だと思うんですよね。だから何回も来たくなるし。

一つひとつのお寺にある、ちょっとした石の積み方にも意味があるんです。そういうものを自分なりに見て、さっきの「わびさび」ではないですが、時間を映像じゃなくて、現在から時代を見るような感覚で、楽しんだらいいんじゃないかなと思います。

ーー最後にここに宿泊したゲストの方へメッセージをお願いします。

まず、泊まってくれてありがとうございます。先ほど話したように、この作品がどうという訳でもなくて。一つひとつのグラフィック作品を見るという視点ではなく、京都、日本という全体を見て、自分が「境界線を越えるのか、超えたと認識するのか」という思考を生む。その助けになる場所になれば、うれしいと思っています。こうして欲しいという定義はないですが、制作者としてはここが自分の心にアクセスする場所になれば、冥利に尽きますね。

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