東京の日本橋から京都の三条大橋まで続く、東海道。江戸時代に整備された492キロの道のりには、箱根も含まれている。

かつては「箱根八里」、現在は箱根旧街道と呼ばれるその道は、小田原から箱根を通って三島に続く、約32キロ。その間に、標高800メートルを超える箱根山がそびえ立ち、足元も険しいことから、「天下の難所」と言われた。

その道を、一気に歩き通すのは難しい。その昔、箱根の東海道沿いには9軒の茶屋があった。道行く人々はそこで飲み食いして体を休め、天下の難所を乗り越えるための英気を養った。そのうちの一軒が、営業を続けている。江戸時代初期から創業400年の、甘酒茶屋だ。

その名の通り、名物は甘酒。箱根八里を無事に乗り越えるために、「飲む点滴」とも称される栄養豊富な甘酒を出してきた。製法は今も変わらず、地場産のうるち米と米麹、少量の塩のみで仕込んだ無添加の甘酒だ。

今も旅人でにぎわう甘酒茶屋だが、何度も廃業の危機に瀕してきた。明治時代に旧街道ほど入り組んでいない道が作られ、それが「国道一号」になると、次第に人も物流も国道に流れていき、旧街道の往来が減った。

現在13代目の店主を務める山本聡(やまもとさとし)さんによると、祖父母の代には、お客さんが1週間に一人、10日に一人という日もあり、「こんな不便なところは早く閉めて、引っ越そう」という家族会議が行われていたという。

1973年11月には、火事で甘酒茶屋が全焼。そのタイミングで廃業してもおかしくなかったが、「甘酒を一杯飲んだつもりで」と、店先にお金を置いていく人が続々と出てきた。さらに、近所の人からは「建て直しに使って」と木材が寄付され、日本各地から励ましの手紙が届いた。

山本さんの祖父母は、雨の日も雪の日も、お客さんが10日に一人しか来なくても、365日、茶屋を開け続けた。それはきっと、旧街道沿いに残った唯一の茶屋として、天下の難所を歩く人たちの拠り所を守るため。先祖から受け継ぐその想いは、地元の人や旅人に伝わっていたのだ。

その後、観光で旧街道を歩く人、ドライブする人も増え、茶屋の経営は持ち直した。

「創業400年ってすごいですねと言われるんですけど、自分の店であってそうじゃないような、お客さんに続けさせてもらっているというのが本音です」と山本さん。

それでは最後に、そんな山本さんが語る“忠”臣蔵の舞台裏をどうぞ。

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