福住旅館は、江戸時代はじめの寛永2年創業。当時、源泉がひとつしかなかった湯本では、宿泊客は誰でも入浴できる共同浴場「総湯(そうゆ)」を利用するのが一般的だったが、福住旅館は建物のなかに浴槽を設けて入浴する「内湯(うちゆ)」を備える高級旅館だった。
中でも二宮尊徳の弟子であった十代目当主は、人気の浮世絵師・歌川広重に依頼し、「箱根七湯方角略図」という浮世絵を書いてもらって旅館の宣伝をするなど、先進的な人物だった。そして、明治になって文明開化の時代を迎えると、洋風の外観と和風の内装による「萬翠楼」「金泉楼」を完成させた。外壁には、湯本で採れた「白石」を使用しており、今もその一部が遺されている。
完成当時は、川の対岸から萬翠楼、金泉楼に架けられていた「旭日橋」が湯本温泉への入り口であった。しかしこの「旭日橋」は新道の付け替えにより早川上流に移され、元の場所には新たに「福住橋」が架けられた。戦後に「福住橋」は廃され、やや下流に「湯本橋」が設けられ、新たに湯本温泉の入口となった。現在でもこの「旭日橋」「福住橋」の跡を見ることができる。
福住旅館は、2001年、営業する旅館として初めて国の重要文化財に指定された。