山梨には機織りの町がある。「え、どこに?」とあなたは思うかもしれない。同じ山梨県内に住む人に聞いてみても、そんな反応が返ってくることが多い。そう、ここは忘れられた機織りの産地なのだ。
しかし、町を歩けば今でも織機(しょっき)のリズミカルな音が聞こえてくる。カタンコトン、カタンコトン……遠い昔から変わらずに続く音。それなのになぜ、みんなはこの町のことを知らないのだろう。
謎を探りに、山梨県産業技術センターを訪れた。かつて「工業試験場」という名前だったこの施設は、今でも町の人たちから愛着を込めて「シケンジョ」と呼ばれている。案内役は研究員の五十嵐哲也さんだ。
まずは、この町がどこにあるのかを伝えなければならない。けれど、この産地には「桐生」や「今治」のようなはっきりとした呼び名が存在しない。富士吉田市と西桂町にまたがるこのエリアを、五十嵐さんは「ハタオリマチ」と呼ぶ。名前が無いことを表すために、あえてカタカナで表しているのだ。
この町の機織りの歴史は長い。文献に始めて登場するのは967年の「延喜式(えんぎしき)」。甲斐国(かいのくに)、つまり山梨からは、税として国に布を納めるように、という内容が記されている。農作物を育てるのが難しい山際のこの町では、昔から織物が産業の中心だったのだ。江戸の商人からすると、わざわざ山梨まで足を運ばなくても、その手前にある八王子の産地で用が済んでしまう。それでもどうにかして山梨まで布を買いに来てもらえるように、この産地の人々は工夫を凝らした。
まずは糸を細くし、山道でも運びやすい軽い織物をつくる。軽いだけではない。高度な技術を注ぎ込んで、繊細で美しい布を作り上げたのだ。時は江戸時代。贅沢を禁止する奢侈(しゃし)禁止令が発令されると、この生地の人気が一気に高まった。それはなぜか? 粋な江戸っ子は、法律で贅沢が禁止されようとも、そう簡単にお洒落をあきらめない。外から見れば地味な着物。しかしその裏地には、軽くて美しいこの産地の布を採用した。当時のこの地域の呼び名から、甲斐の絹と書いていつしか「甲斐絹」(カイキ)と呼ばれるようになった。
昭和になってからも、甲斐絹の技術を引き継いだ織物は発展を続ける。とにかく軽く、しかも美しい生地は、着物がスーツに変わった時代でも最高の裏地として愛された。織れば織るほど飛ぶように売れる。「ガチャッ」とひと織りで一万円。この町が栄えた「ガチャマン時代」の到来だ。大手ブランドがこぞってこの町で布を作らせた。でも、ブランドにはブランドのイメージ戦略がある。他社ブランドの製品を製造することをOEM(Original Equipment Manufacture)という。ガチャマン時代の仕事のほとんどがこのOEMだった。やまない雨のように仕事は降り注ぐ。稼ぎも多い。しかし、「あの有名ブランドの生地を作っているのは私たちだ」とは言ってはいけないルールがあった。仕事をもらう代わりに、この産地は名前を失ったのだ。
「知る人ぞ知る産地でいい」と言っていられたのは、景気が良かった時代の話だ。バブルが弾けた後には、安い生地が大量に海外から輸入されるようになった。高価な生地は売れない。産地に回ってくる仕事が減ってくると、ハタオリマチは名前だけでなく、仕事も失っていった。それはまるで、自分を捨てて会社に殉じていた人が、突然会社までも失ってしまったような衝撃だっただろう。しかしそれでも、この町の機屋(ハタヤ)の人々は切れそうな糸をつなぐように、新たな挑戦を始めた。今では遠く離れてしまった生産者と消費者。作り手のことは忘れられ、使い手の顔は見えない。これは、そんな両者が改めて出会い直すための挑戦だ。
「生き甲斐」という言葉がある。アメリカの研究者、ダン・ベットナーがこの言葉を紹介し、「ikigai」という概念は欧米でも広く知られるようになった。「ikigai」は、次の4つが重なり合うところに生まれるという。ひとつは、「あなたが得意なこと」。そして、「あなたがやりたいこと」。それから「求められていること」、最後に「収入になること」。この4つが重なった「生き甲斐」とは、つまり「ブランド」と同じことを指すのだ、とシケンジョの五十嵐さんは語る。消費者に自分たちの存在を知ってもらうには、オリジナルの「ブランド」が必要だ。そしてブランドをつくるということは、自分たちの「生き甲斐」を表現するということでもある。
さて、なんの偶然だろう。「生き甲斐」という言葉の中には、甲斐絹の「甲斐」が含まれている。そんな甲斐国ハタオリマチの生き“甲斐”に会いに行ってみよう。これから紹介するハタヤさんは、毎月第三土曜日に工場やショップを開放している。ただし、月によってはお休みするハタヤもあるので、訪れる前日までにオープンしているか確認してもらえるとありがたい。